教育と民主性・社会性:正解のない問題⑥-3
教育と洗脳は紙一重?
教育によって民主的な社会は維持できるのか
について考えました。
この記事は三部構成で、下記に貼ってある前回の記事の続きですが、民主主義と全体主義の違いがザックリ分かっていれば、この記事からでも読めるようになっています。今回は日本の話です。
jintarou-tai-gun-sai-yo4.hatenablog.com
社会の民主性って何?
さて、皆さん。民主性ってどんな意味を指すと思いますか?
ググればいろいろ出てくると思いますが、「主権が国民にある状態」とかそういう意味ですね。
言い換えれば
- 自分達でいろいろ決めることができる状態
- 人それぞれの考えの違いが尊重される状態
この二つが民主性を保つ条件だと思います。
前回までの記事の要点ですが、
香港の人たちは何故抗議しているのか。
それは「自分たちで決めることができない」からです。
何故問題なのか。
それは「様々な立場や考えの人がいるのに、その多様性を無視して、権力者の価値観に国が左右されるから」です。
そしてその基盤を作るのは教育だと僕は思います。
教育が全体主義的になるとどうなるのか、
現在の中国は独裁国家として国民の自由が認められていません。
過去の日本では、軍部の独裁により国民の多くが戦争への犠牲を強いられました。
これは僕の私見ですが、現在の日本でも個人よりも全体の利益を優先する風習は少なからず残っているらしく、これがブラック企業問題や、国際的に上位な自殺者数といった社会問題につながっていると思っています。
実際学生バイトやサラリーマン時代にそういう経験あったし.....笑
なんなら中学校時代に独裁組織にいたので因果関係を感じてしまいます。
ちなみにその話は過去記事に書いてます。
jintarou-tai-gun-sai-yo4.hatenablog.com
教育が民主性を失うとヤバいって話は、もうしたので
ここからは身近なモデルケースを参考に話します。
教育の民主性・モデルケース:服装の規定
とある公立中学校の職員会議で次のような議題が挙がりました。
議題:現在新型コロナウィルス感染対策の観点から、洗いやすいジャージでの登校が可となっている。特定の行事では制服登校となっているが、靴下やインナー等に黒や白や紺、もしくは落ち着いた色といった指定を加えるのはどうか。
理由:現在三年生は受験シーズンである。受験では、相応の服装が求められる。ジャージ登校が日常となっているため、改めてTPOをわきまえるための指導をする観点と、受験という試練に対して一致団結の一体感を出したい。
皆さんはどう思いますか?
ちなみにこの時は反対意見が多く、一旦再検討となりました。
ちなみに僕は反対です。
反対意見(ジン太郎の意見含む。詳しくは後述)
- 今までなかった制約を突然加えるのは生徒も納得しないかも。
- TPOは大事だが、受験は別としても、相応しい服装の定義が曖昧である。
- 安全面に配慮した上で自由意志や多様性は尊重されるべき。
- そもそも一体感というのは絶対ではないし、職員がどうこう言うものではない。
- 生徒に意見を聞くべきだ
- 新校則としてとらえるのならこの職員会議だけでは決められない。
- 公立学校の「制服」は、正式には「標準服」であるため職員が指定するには限度がある※
※補足:学校の制服とは、正確には「標準服」です。
公教育(みんなのための教育)である以上「どんな服を着るのが適切かわからない」や「経済的理由で着ていく服が足りない」あるいは「服装から経済格差が露見する」などへの配慮から、「標準の服」を全員分用意する。これが標準服の意義であり、本来強制力は持たないものである。という立場の主張です。
賛成意見 (僕の反論も書きますね)
- 集団生活、特に受験という試練の前では一丸となって規律意識を持つべき。←あくまで個人の思想の範疇を出ない。
- 洗う手間の少ないジャージ登校にしてから、床で寝転ぶなど生徒のだらしない行動が目立つ。←制服にしても生徒の中身の本質が変わるわけではない。生徒は一生制服着るわけではないから、態度から指導するべき。
- 規律意識の低下が問題視されているため、服装の影響は大きいのではないか。←上と同じ。
- コロナ過で人とのつながりが薄れている。一体感は大事。←服装同じにしただけでつながりを感じるだろうか。
論点
論点➀:学校の民主性・社会への影響
僕の意見を述べます。さっきも言った通り反対です。
何故なら、ここには主権者たる生徒と保護者の意思決定が介在していないからです。
民主的社会を保つ上で重要なのは、主権者の意思決定、つまり「自分たちで決めること」です。主権者とは、国であれば国民。学校であれば生徒やその保護者です。
政府や学校職員はあくまで調整役に過ぎないと僕は考えます。
まず今回の提案の根幹には「全員で統一すること。これが集団生活において重要」という前提があります。
その思想が国家レベルで力を発揮するとどうなるのか。
それは全体主義国家の始まりとなります。
全体主義社会とは、
いわば「規律を守ること=みんな同じであること」です。
ここに多様性は認められません。多様性は集団生活の輪を乱す悪と見なされます。
逆に民主主義は
「違いがそれぞれあること=話し合って決める」
なので、主体性を持って自律することが求められます。
学校教育は社会に出る前の人間的基盤を作るところです。たかが服装のルールだとしても社会への影響は無視できません。
論点➁:そもそも一致団結する必要があるのか・「規律」とは「社会性」とは
改めて今回の問題点を大きく分けて二つ
- 服装に制約を加えることで、生徒の育む社会性が限定されるのではないか
- 生徒や保護者に意思確認をするべきではないか
たしかに子供達が将来社会の秩序を乱さないように、規律意識を教育することは大切かもしれません。では規律意識とは何でしょう?みんなと違う自分の意見を主張することは悪いことでしょうか?
「理想の社会」とは何か。人によって考え方が違います。
集団に同調させることが教育ではないと思います。
子供達が将来どのような仕事に就くのか、どのような組織に所属するのか、あるいは組織活動から独立して生きて行くのか。
一致団結することに意義を感じる者と、そうでない者。両者とも社会においては必要な人間ですし、活躍している事例はいくらでもあります。
そもそも一致団結とはどういう状態を指すのかさえ人によって違います
人間が獲得できる社会性はそれぞれ違っています。その連なりが民主主義社会です。
ちなみに
私立中学校や、義務教育外である高校では、比較的こういった問題は起こりにくいと考えます。
何故なら私立中学や高校(公立含む)は、その学校を選ぶときに何らかの意思決定が働くからです。
「どういう学校か特徴も分かったうえで選んで入学したんだよね?」と言えます。
試験などの一定の基準を設けて入学しているため同質性が高い人間が集まります。
公立中学校の場合、ほとんどの子は「その地域に住んでいたから」以外にその学校に入る理由はありません。
なので、公立の生徒の同質性は「地域性」くらいのものでしょう。たしかに地域性は重要な要因ではありますが。
しかし義務教育は「全員」が受ける教育です。「公的機関(みんなのための機関)」である以上、特定の思想のみによる教育ではなく、私立以上に多様性への配慮が必要となってきます。価値観や個性による格差はなるべく合理的に減らすべきです。
制約を設けることによって、あるいは設けないことによって、その子の本来持っている感性や能力を潰してしまうかもしれないし、逆に伸ばすこともできます。
そして教育環境の影響を受けた生徒達は将来社会を築いて行きます。
学校の常識ができるまで。
「クラスで一致団結」
義務教育で常識的に使われがちなこの考え。皆さんは疑ったことありますか?
個よりも集団を重視していているようなこの風潮には歴史的な背景があります。
日本の公立学校は、明治時代の開国期に
「外国に負けない国作るぞ!国民皆学や!」
ってところから始まりました。そして
「外国の軍事力ヤバくね?富国強兵しなきゃ!」
となり、教育勅語は出され、それ以降「みんなで一致団結して立ち向かうぞ!」という軍国教育となります。
日本の全体主義化は教育によって浸透したのです。結果的に戦争で沢山亡くなりました(教育勅語やこの話は前回の記事参照)。
敗戦後、アメリカによって民主主義化した日本ですが、その後の奇跡の復興や、高度経済成長は、間違いなく当時の人々が「一致団結」して頑張った結果です。
「24時間働けますか?」といったスローガンが流行ったり、戦後においても個より集団を優先して貢献することが求められていたのは、歴史の皮肉だと思います。
現在の学校教育には、この頃の名残が少なからず残っていると思います。
現在の公教育のルールを決めている偉い人たちは、まさに集団組織活動に重きを置いていた時代を生きた人たちです(いい加減アプデしてほしいな~笑)
このような背景が、現在の学校の「当たり前」を作っています。
今回の議題を提案した人だって、別に独裁がしたかったわけではありません。純粋に服装を揃えて生徒が一致団結することに意義があると思っていただけです。
潜在的にそういう価値観が刷り込まれていたのか、それとも学校の実情や何らかの合理的背景を鑑みてそう判断したのかはわかりません。
実際、みんなで団結するって素敵な事ですし。
ただそれだけが正解とは限らないよね?
いろんな意見があって良いと思います。それが民主主義です。
どうすれば良いかな?・ジン太郎の意見
どうしてもルールを決めるのであれば、生徒間で投票とかにすれば良いのではないでしょうか。実際生徒会など、民主的なシステムは既に学校に存在します。
発達途中の子供だけに判断を委ねるのが不安であれば、保護者にも意見をうかがうなどすれば良いといます。
最終的には職員が調整に入るべきだとは思いますが。
生徒が主体的に意思決定すること。「自分たちで決めた」と自覚することが必要です。
ちなみに東京都千代田区の麴町中学校では、民主性・主体性という観点から
宿題、担任制、中間・期末テスト、体育祭の全員リレー、頭髪指導などを廃止しました。
教育と民主性を考える上でとても参考になる事例ですので是非ググってみて欲しいです。
最後に
ちょうど同じタイミングで、制服に関する署名活動を見かけたのでシェアします。
*校則見直し 署名にご協力ください*
— 斉藤ひでみ/現職教師(Yuji Nishimura) (@kimamanigo0815) 2021年1月30日
制服は強制力のない「標準服」にしませんか?
きっと、過度な身だしなみ指導もなくなります
学校はもっと多様で寛容で、学びに集中する場所でいい
そしてコロナ後の日本を少しでも優しい社会に…!#制服と私服の選択制に賛成しますhttps://t.co/IkWK3bhZO0
選択制にに関しては、様々な価値観に配慮した良い案だと思い賛同しました。
あなたはどう思いますか?