ジン太郎の話

どう生きて行くのか、多様な世の中における人生の探求録

戦争の被害者?加害者?多角的に歴史を見よう。:正解のない問題⑦

久々の更新です

あれからいろいろあって社会系の科目の教員として働くようになりました。

 

さっそく本題ですが本日は終戦記念日です。

先日放課後に生徒との世間話で、生徒Aさんから気になる話があったので、身バレしない範囲で話します。

テーマは「相手の立場を理解する」といったところでしょうか。

 

Aさんの話

Aさん「私は昔から終戦時期に関する歴史の授業が苦手でした。

特に苦手なのは沖縄での多大な犠牲や、原爆の落ちた広島や長崎の話です。

その理由は、この話が授業で扱われるときに当時のアメリカへの批判や、酷いときはアメリカへの悪口がクラスの中で飛び交うことがあるからです。

事実を扱うのは良いと思います。しかし私の家族にはアメリカ人がいます。確かに当時の日本の人々が戦争で悲惨な目にあったことは理解しています。ですがそれと同じくらいアメリカ側の言い分を私は家族から聞いていました。もちろん私の家族は当時の日本側の言い分も理解してくれています。だけど.....」

その後もAさんは意見を言ってくれました。 

 

Aさんは私の担当クラスの子ではありませんでしたがこの話は、歴史を教える立場としてかなり重く受け止めざるを得ないものでした。

 

本の学校では多くの場合、修学旅行や遠足など、沖縄や広島への遠征行事にて、あの惨劇を経験した現地の人々の話を歴史教育として聞くことがあります。

Aさんはその行事がコロナによって中止になってホッとしたと打ち明けてくれました。

 

戦争は多からず少なからず、被害者的側面と、加害者的側面があります。

その見方も意見も立場によって異なっています。

 

Aさんとの会話は、歴史を片方側からだけ見ることへの違和感と、その危うさについて、教える立場の私に改めて気づきを与えるものでした。

そして子供たちの多くが歴史を多角的に見ることができる授業の重要性を改めて教えてくれました。

もちろん当時の担当教員がアメリカに対して批判的な授業を行ったわけではなかったとAさんは言っていました。

しかしAさんを取り巻く周囲の人間がそれをどう捉えるかは別です。

少なくともアメリカを批判した別の生徒にとっては、日本の被害者としての立場だけが強調されて見えたのかもしれません。私の想像ですけどね。

そんな時、教室全体が歴史に対して一方的な物事の見方をしないように投げかけること求められます。

例えば「では何故、○○の国はそういう行動をとらねばならなかったのだろうか」などです。

 

もちろん個人がどちらかの立場で意見を持つのは構わないと思います。しかし教育は別です。何故なら、何が正しいかどうかを決めるのは教員ではなく生徒だからです。

それが民主主義です。

 

 

この手の話をすると、テレビ番組などメディアからの情報発信が偏っているのではないかという議論が挙がるので、それに関してもここで触れておきます。

 

先に言うと私は受信者側にも課題があると思っています。

何故ならメディアは多くの場合、会社員なのである種の個人の発信と言えます。

会社員である以上、利益を出さないと食べて行けません。

戦争の被害者的側面もしくは加害者的側面のどちらかを強調したほうが数字が取れて、儲かるなら、それ自体が悪いこととは言い切れないと思います。需要に答えてビジネスしているだけですからね。

なお、公費で運営されているNHKについては扱う内容について議論の余地があると思っています。

問題は、受信者がこれらの事情をわかった上で内容に共感しているのか。それともそれを理解せず「ニュースでこう言ってたからこう」とただ見た内容を鵜呑みにしているのかでは話が違います。

「正しさの決めつけ」ほど危険なものはありません。

 

ではどうすれば良いのか、私が考える健全な手順は

受信する→受信した内容を理解する→発信者の意図や立場を考える→受信した内容について必要に応じて調べる→自分の考えとすり合わせる。→自分の意見を持つ。

などでしょうか。メディアリテラシーってやつですね。

 

多くの場合、自分が得た情報や教育は、発信者の意図が介在しています。

それを読み解くことができなければ、片方の意見だけを尊重した生きづらい世の中になるでしょう。そういう意味でも我々教員の責任は重要だと思います。

 

みなさんはどう思いますか?