ジン太郎の話

どう生きて行くのか、多様な世の中における人生の探求録

ジン太郎の自己紹介(書き直し)

おはようございます。ジン太郎です。

 

細々とたまに書いては何名かに読んでもらえてるらしい(ありがとうございます)このブログですが、私はブログって読む人にとっては「このブログ書いてる人は何者なの?」って重要だと思ってます。

その人がどんな人でどんな意図で書いているのかわからないと、せっかく読んで下さる方に内容の意味合いなどが伝わらないと考えてるので

で、このブログ立ち上げた際に自己紹介を書いたのですが...

 

うっかり消してしまったんですね笑

 

という訳で再掲載です。

ただ前回書いたヤツが初めてのブログだったのもあってゴチャゴチャしてて、今思うととても見れたもんじゃないので、その時の反省を活かして簡潔に書きます。

 

ジン太郎

年齢:20代後半(2019年現在)

経歴 :4年制大学卒業→販売関係の仕事数年→通信制大学で教員免許取ろうとしてる学生で仕事は児童支援施設でのパートさんです。

ブログの意図:自分が生きていく上で疑問に思った事や意見をまとめたする。思考整理と発信が目的。

過去に数年間部活で体罰を受け、それが自身の人格形成に影響したと考えているため教育問題への関心が多め。

また、自分で見て感じた社会の諸問題は教育と密接に関係してると思います。

同じように問題意識を持ってくれる仲間を探しています。

 

様々な問題意識を持つ人に少しでも呼びかける。

 

以上

よろしくお願いします

ホントに若者にとって選挙は無駄だと思う?:正解のない問題③

https://www.ntv.co.jp/zero/articles/105yd93qixij07lhqdx.html

※本記事は特定の政治勢力を支持するものではありません。

 

ジン太郎です。久しぶりの更新です。

さて、いよいよ参議院選挙ですね。

今回は若者が選挙に行かない理由について、一つ気になった意見があったので自分なりの意見をまとめました。

ここで言う若者とはとりあえず選挙権を持ってる18歳〜30代とします。私も同世代の1人なのでとても関心のある話題です。

 

 

 若者の投票率

 

まずは今回の疑問に至った経緯を話しますね。

まず今回の参院選(2019年7月21日)にあたり、SNSで若者の選挙参加を呼びかける声や若い芸能人達の呼びかけがかなり目に入ったのがきっかけです。ちなみにこちらのリンクはたまたま目に入った日テレのニュースです。これは大変参考になりました。

これらの背景には「若者選挙参加しなさすぎじゃない?」という話が前提としてあると思います。

リンクにも載っていますが、各世代の投票率は総務者のデータによれば

 

20代.....約35.60%

30代.....約44.24%

60代.....約70.07%

だそうです。やっぱり若者の投票率低いですよね。ちなみに私は毎回欠かさず行ってます。

そこで若者が選挙に行かない理由をいろいろ調べてたのですが、人的にジン太郎の目に多く入った意見で1つ最も気になったモノがあったので

今回はそれについて自分の意見をまとめます。

 

まず若者が選挙に行かないとどうなる?

うん。もはやコレはわかりきった事ですね。シンプルに若者が困ります(笑)。

いや、全然笑えないです。例えば上のニュースでも取り上げられているように2019年現在の日本の社会保障費は年金や介護や医療など、比較的高齢者向けの政策に9割。少子化や雇用対策など若者向けの政策は1割となっているようです。

みなさんもご存知の通り、少子化や雇用問題などの若者を取り巻く社会問題は、少なからず高齢者支援に偏った(ように見える)諸政策と因果関係があるという考えが、世間に浸透していると思います。一方で高齢化も進み2018年時点で若者2人で高齢者1人を支えているのが現状で、このペースで行くと2050年には1.4人で1人の高齢者を支える事になるという見解や、怖いものだと2040年で若者2人で1人の高齢者を支える事になるという見解まであるそうです。

もちろん私は別に高齢者を支える事自体は悪い事と思いません。ただそれにしたって偏りすぎでない?

 

若者が選挙に行かない理由

これいろんな意見があるのですがジン太郎が聞いたものをあげます。他にあったら教えてくれると嬉しいです。

 ①そもそも政治に関心がない

     問題を身近に感じていないようです。 

②どこ選んだら良いかわからない

   下手にわけわかんないとこ入れるくらいなら、余計な事しない方が....とのこと

③時間がない

    期日前投票もいけるとは限りませんからね。

 

などなど他にもいろいろあるでしょうが1番気になった意見がこちら⬇︎

有権者は高齢者の方が多いから、行っても無駄じゃん

  です。つまり全世代の全員が投票したら数で若者は不利だから意味ないやんって話です。これはたしかに意見として説得力があるのではないかと思ってます。

 

 

ジン太郎の意見

結論から述べると、それでも行った方が良くない?と思います。

多くの場合④の意見は有権者の数は我々若者の方が少ない。若者全員が投票したところで高齢者の何割かが投票すれば直ぐに抜かれる。我々の民意は反映されない。やっても無駄だ。そんな事のためにあらゆるリソースを割きたくない」という論法です。たしかに理屈は通っているように見えます。というより残念ながら事実です。

 

しかしそれでも我々は次に進むために選挙に行くべきだと思います。

 

例えばみなさん、この話を御存知でしょうか?

ある高校でサッカー部が存在していませんでした。そこにはサッカー部を作りたい生徒達がいました。しかし「やりたい」という言葉だけでは当然大人達は動きません。部活を設立し運営するのにもそれなりのコストとリソースが発生するからです。学校側がサッカー部を設立しなかった理由は「希望者数が少ない。環境が整備できていない。」などでした。そこで該当生徒は部員となる仲間を呼びかけによって集めて揃えて、仲間と共にグラウンドの整備を競技活動が可能なレベルにまで行いました。そして支持してくれる他の生徒や保護者達に向けて署名活動を行ったのです。それを受けた学校側も一定の基準をクリアすればサッカー部の設立を検討すると答えました。生徒達は自分達の出来る行動を全力で行いその基準を満たすことで、ようやく学校側とサッカー部設立に向けた話し合いのテーブルにつく事が出来たのです。結果サッカー部は無事設立されました。生徒が自ら行動を起こさなければ学校側は耳を貸すことすらしなかったでしょう。

 

この話は選挙の問題でも同じ事が言えると思います。

つまり我々はまだ「やっても無駄だ」と主張することができるレベルには達していないという事です。そもそも投票にすら行かない=政治に関心のない人間の意見に、国の偉い人達が耳を貸すと思いますか?

これはいち学校のサッカー部の設立とは明らかに規模が違います。愚痴や文句を垂れてるだけで動く話ではありません。

既存の選挙システムじゃ若者の意見が反映されるようにできてないからなんとかしてくれ!」という主張は、国からしてみれば、国側が提示した「選挙に行け」という条件を果たしてから成立するのではないでしょうか?

そこまで行ってはじめて「こんなに多くの若者が投票したけど無理だ。数を補える仕組みを作ろう」という話し合いのテーブルにつけるかどうかの段階になります。もちろんそれで直ぐに解決する話ではないと思いますが、検証してみなければ次のステージに行くことはできません。

無駄に終わるかもしれませんが、1番無駄なのは何もしないでブツブツ文句だけ垂れている状況だと思います。

ないものねだりをするより、あるもので闘っていくしかありません。というよりそもそも我々は高齢者と闘っているわけではないです。日本の多くの人に次の世代の事を考えた舵取りを意識して貰うためにも。まずは我々が参画するべきだと思います。

 

1番怖いのは「若者は選挙に参加しないのだから自業自得だよね」

で終わる事です。

 

あなたはどう思いますか?

 

 

    

体罰に賛否両論を持ち込むのはおかしいでしょ。:正解のない問題②

 

jintarou-tai-gun-sai-yo4.hatenablog.com

おはようございますジン太郎です。

前回のエントリ経験編から1カ月、今回は前回続きで考察編です。更新が遅くなり申し訳ありません。

3月(2019年)に児童福祉法関連の改正案で「家庭内のしつけによる体罰」禁止が国会に提出されましたね。この改正案に関する記事ではいずれも「しつけ」を口実にして日常的に暴力行為が行われた件について触れています。

ちなみに近年学校での体罰は統計的には減りつつありますが、東京都では同教育委員会によると体罰は減ったが暴言は増えた(2017年)とされており、未だに深刻な社会問題だと思っています。

前エントリの経験編では、過去に私が経験した学校での事例を元に、指導やしつけの場面で日常的な暴力(以下本エントリでは言葉の暴力も含むものとする)が使われ、それが正当化される(ように見える)一連の流れをイメージしやすくしたつもりです。

また、これらの社会問題は子供の教育に限らず社会の様々な場面で類似するケースが散見しており、会社などに関しては近年の働き方改革パワハラ問題として少なからず目を向けられている印象です。

 

 

何を伝えたいの?

子供の教育に対しては、関係各機関の調査によれば日本では過半数近くが体罰容認派(地域にもよる)というデータが存在します。理由に関しては「場合によっては必要」という回答が多いそうです。

前回の経験編でも述べましたが、このような話には大なり小なり賛否両論があります。メディアやSNS等でも度々論争している場面が見受けられますね。

今回は「そもそも賛否両論に持ち込むこと自体おかしくない?」という話をします。

そこで、しつけや指導において暴力が使われる理由についてと、何故暴力は使ってはいけないのかについて自分の考えを述べます。

 

いろんな意見

まず私が集めたメディアやSNSや各機関の調査データのアンケートからよく見受けられる、反対派と容認派の意見をザックリ次にまとめますね。経験編を読んでくださった方はそれを思い出しながら容認派の意見をご覧下さい。

・反対派(指導受ける側も含む)

①人権侵害:相手に危害を加えるのはいけないというシンプルな一般論ですね。

②法律で禁じられている:①に近い意見ですが、社会における線引きの一つです。

③指導対象に悪影響だ:モチベ下がったり、人格歪んだり、酷ければ怪我や自殺や殺人に至りますね。

ちなみにしつけに精神的又は身体的暴力を使うと人間の脳の発達に深刻な悪影響が出ることは近年の研究で科学的、医学的に証明されつつあります。

・容認派(指導を受ける側も含む)

①愛のムチだ:「相手を思えばこその対応だ」という主張です。「痛みが教訓になる」と主張する人もいます。精神力強化の指導に有効だという意見もあります。

②暴力じゃないと更生しない人もいる:「口で言うだけじゃダメな相手だから」という主張です。

③相手側にも問題がある場合がある:②と関連してですが、つまり指導対象の行動によっては「そういう対応をされても仕方ない」という主張ですね。

④実際に効果がある:これは実績込みで主張されます。たしかに一見説得力あるように見えますね。

⑤甘やかしてたら子供のためにならない。:大抵本人の経験談として主張されます。

他にもいろいろあると思いますが、一旦このくらいにしときます。

 

容認派の意見は主に経験編でのA先生やそれを支持した人達からも聞いた意見です。

 

社会のルールではどうなっているのか

まず学校での体罰に関しては学校教育法第11条で明確に禁止されています。

この話をすると大抵「じゃあ教師は生徒から殴られようが蹴られようが無抵抗でいろっていうのか!」みたいな事を言う人達があらわれます。

あたり前のことですが(ホントあたり前のことですが)それはそもそも体罰云々以前に当防衛関連の法律が適用されるのでもはや体罰とは別問題です。

ちなみに教師の正当防衛が成立する事に関しては文部科学省の通知文にわざわざ明記されてます。

学校の体罰は統計上は減りつあり、家庭内のしつけによる暴力や会社でのパワハラ等は近年法規制が整備されつつあります。

みなさんもご存知の通り、この社会情勢を見て「息苦しい世の中になった」と言う人も少なくないですが、そもそも戦後民主主義化してからの日本の法律って「例え上の立場でも個人の人権を侵害してはダメだよ」といった事が明記されているんですよね。今までまかり通ってたのがおかしいという見方もあります。

シンプルな話、相手が思い通りに動かないからって攻撃して良いという理由にはなりません。

ちなみにこの流れは世界でも同じ認識であり、少なくとも世界50ヶ国以上が体罰を法律で禁止しているため、人によってはこの点において日本は後進国だという意見もあります。

 

じゃあなんで暴力が使われるの?

先にも少し述べましたが、体罰や暴言による指導は、知能や理解力や人格形成、感情制御など、人間の脳のさまざまな発達に対してかなりシャレにならないレベルの悪影響が出る事が研究者によって医学的に証明されつつあります。医学的にも法律的にも暴力による対応が間違っているとされている中、何故これらの指導がまかり通ってしまうのでしょうか。

上記でも述べた通り多くの場合、当時者にとって暴力は「相手を潰すため」ではなく「相手を教育・育成するため」の手段です。

容認派の人達は割と本気で相手のためになると信じていたからこそ、今日の社会問題として扱われるまでに浸透していったと考えられます。

「私は殴られて(あるいは罵声を浴びせられて)育った。結果的にそれで良い方向に成長したので感謝している」という意見がありますが、そういう人がいざ教育者の立場に立って同じこと繰り返すってよくある話ですよね。

こういった人達は「悪い事をしよう」と意識して相手を攻撃している訳ではありません(例外はある)。彼あるいは彼女らがそういった対応をするのは本人達にとって「他に方法がないから」あるいは「それが最も効果的だから」です。

なのでぶっちゃっけ私は法規制や厳罰化によって表向きの発生件数が減っても、心の中では体罰は必要と考えている限り根本的な解決にはならないと考えています。

 

結論:そもそも暴力は教育手段ではないので賛否両論も何もない

必要なのは本来の目的「教育・育成のため」という点に注目して意識を変えることです。

つまり「暴力は法律でダメだから」ではなく(もちろんそれも大事です)、そもそも暴力は教育・育成において有効ではない」というマインドが浸透しなければ、根本的解決にはならないのではないのでしょうか。

たしかに暴力を使う事によって、問題行動が更生し一時的に成長したように見える事もあるでしょう。

しかし彼あるいは彼女ら教育者は大抵の場合、指導を受けた教育対象の卒業後の人格形成や成長に及ぼす悪障害、また教育対象本人が将来新たに教育者の立場に立った時に起こりえる暴力の連鎖、それによって発生した事件や事故に対しての責任は取りません。

なんらかの精神疾患が大人になってから発覚し、その原因が子ども時代に受けた暴力や暴言によるものであったケースも少なくないです。

また「俺(私)は当時たしかに乱暴な指導だとは思ったけど今思えば自分のためになったよ?」や「お互い信頼関係があって納得しているならよくない?(NAR◯TOのガ◯先生とリーのような関係)」という意見もあります。

つまり「本人達が良いなら良い理論」ですね。しかし残念ながらその時に納得していても自分が及ぼされた悪影響に無自覚な可能性があります。ほとんど結果論になる上に一つ一つの案件をそんな曖昧な線引きで分けていては何か悪いことが起こった時に手遅れとなります。その子への悪影響のリスクを負ってまですることでしょうか。

たまに「甘やかして育てられた子の成長に対して責任を取れるのか」という意見がありますが、ここまで述べた視点に立つとむしろ逆と言えます。

例え小規模(これも曖昧な本人のさじ加減)だとしても「安易に暴力を使う事で、その子の成長に対して責任を取れるのか」という話になるのです。

そもそも暴力を使うのって一般的に犯罪なので教育に対する責任以前に社会人としての責任問題ではないでしょうか。

そして「なら代替え案として暴力以外の有効な教育手段を出せよ」という意見がありますが、これまで述べた法的観点・脳科学的観点・精神医学的観点・教育効果的観点そして一般論からも、そもそも暴力とは教育手段でも何でもないただの犯罪行為である事がわかります。

どういう意図であれ有害性が証明されつつある今、それはただ「相手を力づくで従わせているだけ」の行為でしかないため、教育手段の選択肢として引き合いに出すこと自体がおかしいのです。体罰や暴言はもはや教育手段とは別の領域の問題になっています。

例えば「スポーツでルール外の道具持ち込んで良いかどうか」、もっと言うなら「サッカーする時にピッチにハンマーを持ち込んで良いかどうか」とかレベルの論争だと思ってます。普通イチイチそんな事で賛否両論起こらないですよね? 

 

以上の理由から私は指導における暴力は反対です。

参考にしたデータや資料は権利関係の理由で本エントリには詳細は載せませていませんが、ググればすぐ出てきます。これを読んでくださった方々が少しでも関心を持っていただければ嬉しいです。

今回は指導する側の対応について言及しましたが、私は指導を受ける側のマインドも重要であると考えているため、機会があればまた書きます。ありがとうございました。

 

あなたはどう思いますか?

指導での体罰や暴言の話:正解のない問題①

おはようございますジン太郎です。いきなり重めの話をぶっ込みます。

今回の話は子供や部下など、誰かを指導する立場の方々や、今誰かから指導を受けている方々に対して。また過去に指導者や上司などから大なり小なりの暴力を受けた事がある方に対して

指導で暴力を使うのは賛成ですか?反対ですか?

というお話です。ちなみに体罰に関しては学校や会社において既に社会のルールで明確に禁止されていますが、未だに多くの人の間で「賛成」、「反対」、「場合による」、などの意見が対立しているように見えます。

ここでいう「暴力」とは体罰などの肉体的、物理的なものだけではなく「言葉の暴力」すなわち精神的なものも含まれます。

先に伝えておくと私は「反対」です

 

目次

 

  • 何を伝えたいのか

何故いきなりそんな話をしたのかというとタイムリーな話題だからです。最近だと2019年2月に福岡市の少年サッカーチームが指導者からの暴力で怪我を負ったニュースがありましたがご存知でしょうか。

また、2月中旬頃には東京都にて保護者による体罰禁止の都条例案が出ました。これに対しては体罰賛成と反対派の意見対立が少なからず話題になっているようです。(該当記事の一つをこちらに

他に記憶に新しい事例だと1月頃の町田総合高校での体罰の件、去年(2018)だと体操の宮川選手に対するコーチの暴力や日本体操協会の会長の対応についての問題。また日大のアメフトのタックルの件も指導者達の対応が問題視されていました。

実は私、こういった賛否両論巻き起こる指導の現場で指導を受けた側として3年近く身を置いていたことがあるのです。

 

※実際あった事実を述べているとはいえ、内容はあくまで「ジン太郎視点」です。あくまで主観です。また目的は当事者達を糾弾する事ではありません。

しかしこれから話す事は学校だけでなく社会のいろんな場面で類似するケースが存在すると思っています。

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  • ジン太郎の中学時代の話

学生時代に部活動をやっていた方は顧問の先生から厳しいお叱りを受けた経験はないでしょうか?多くの方が経験あるのではないかと思います。

ではその中で「先生の腕からパイプ椅子が飛んできた」という経験はございますか?「パイプ椅子」ってあれです。体育館にある卒業式とかでよく使うあの椅子です。流石に3年間でたぶん一回だけだし、誰もいないスペースに投げてくれたので怪我人はいませんでしたが…。「セッション」というジャズドラムの映画に同じような場面ありましたね。

 

どんな環境だったの?

私ことジン太郎少年は中学時代あるラケット競技の運動部でした。部活動指導において数多くの実績を沢山持っているA先生が我々の入学と共に転勤配属され顧問となりました。もともとうちの学校は強かったらしく、それが近年実績が伸び悩んでいたため、地域や学校内の期待も大きかったそうです。

当然結果を求めるにはそれなりに厳しい練習の日々があります。

土日祝日の多くは朝から夕方まで練習をし、夏休みの活動休日は一日だけ。というより部活の休みは試験休みを除けば1年間で平日含めてトータル7日あるかないかくらい。

今の世論の流れを見ると「ブラック部活」とか言われて賛否が分かれそうな活動時間ですかね。

しかし部内で問題視されたのは活動時間ではないです。問題はA先生の指導でした。

「この役立たずが、いつになったら役に立つんだ?」

「そんなに間抜けでどうする?お前邪魔なんだよ。消えてなくなれ」

「チ○ポはあるのに進歩がねえな。(ラケットで相手の股間を軽く叩きながら。痛かったです。)練習しても生産性がねえよ。二酸化炭素だけ吐いて地球温暖化に協力してるだけじゃねえか」

「腐った脳味噌なんだから使うだけ無駄だろうがボケなす。大人しく言うことだけ聞け」

「お前から競技力抜いたら大した価値は残らない」

「バカは死ね。役立たずはいらない」

これらはほんの一部ですが、部活動ではこういった暴言が日常的に常用されていました。

技術的あるいは能力的要望が果たせないとき、返事が不十分だった時や礼儀が不足していた時、その他行動面で的確にできなかった時など様々です。

体育館では常に怒鳴り声が響いていました。少しでもA先生の機嫌を損ねれば「グランド○○周」などもあります。

何かしら指摘できる点を見つけては暴言を浴びせてくる上に常に高圧的に接してくるので、まともなコミュニケーションなど取れる状態ではありませんでした。

それらは次第にエスカレートし、1年生の後半あたりからはラケット頭や身体を叩くといった物理的暴力も常用されるようになり、2年生からは足や頭、体のあちこちにラケットで叩かれたミミズ腫れやタンコブなどを作って帰る日々でした。

「その足もっと早く動かねえならぶっ叩いてでも動かせ、出ないと俺がぶっ叩く」

そう言われてからは試合中無意識にラケットで足を叩く癖ができました。一応言っておくと別に私はドMではありません(笑)。

また学校行事や委員会活動等で部活動の時間に支障が出る度にA先生に文句を言われる状態なので学校生活の全てにおいて「今度は何言われるんだろう」とビクビクしている子も現れました。

これに加えて休みのない日々と練習内容は肉体的にハードな為、我々の心身は試合での実績と引き換えに追い込まれていくこととなったのです。

 

なんで辞めないの?

当然「生徒達は何故そんな環境で部活動を続けるのか」、「その現状を誰か問題提議しなかったのか」と疑問を持つ方もいると思います。

実際校内には問題視する先生もいました。もともと他と比べると生徒が少ない学校で部員数も少なかったとはいえ、我々の学年の退部者は1名のみでした。

その理由は主に次の3つです。

実績が出ていたため、部活動に意義を感じた。

   前評判通りA先生の指導の結果、我々は校内でも注目されるような、受験に少なからず有利に働くくらいには、大会実績を上げていました。

当時スポーツが苦手だった私もそれを克服し自分なりに良い成果を出せたことが嬉しかったですし、チームとしても日頃の苦労が報われていた事に感動していました。

「A先生についていけば試合に勝ってこの感動が味わえる!」ってなっていたのです。

A先生の指導に情熱と正当性を感じつつあった。自分たちが悪いのではないのか?

  A先生は確かに今思えば間違った指導が多かったです。

しかしその内容自体は「礼儀の大切さ」や「一生懸命努力する事の大切さ」などが含まれており、当時我々も部活動を通じそれらを学んでいる事を自覚していました。

また我々が休みなく部活動に出ているという事は、A先生(決してお身体は強くない)も休まずに指導に携わっている事も理解していました。この辺はA先生本人の口からも度々出ていた言い分です。

次第に「僕たちが悪いんだ」と何をされても正当化される空気ができていました。

 

ある日私が、副顧問のB先生(普段部活には来ない)に「A先生の指導が辛い」と打ち明けた時の返答は原文そのまま覚えています。

「A先生は、お前達に悔しさをバネにして成長して欲しいと考え厳しく接しているんだ。甘えるな。」

「ここで逃げたらお前成長できないぞ。楽な道を選ぶな。」

全てを納得することはできませんでしたが、当時中学生の我々には何が正しいのか判断しかねていました。客観的には一種の洗脳に見えたかもしれません。

人間関係的な面で退部に抵抗感があった。

学校が生活の中心となっている当時の我々としては、上記のような環境に毎日いると先生が熱心に指導している中、みんな苦しい中頑張っているのに、そこから抜け出すことへの罪悪感がありました。

「チームメイトや指導者に対する裏切りになるのではないか」という考えが頭にありました。

それに加え仮に退部したとしても、部の人達との人間関係は卒業まで続きます。学校自体が小さいので部員や先生方の全員とほぼ毎日関わるため気まずさも容易に想像できます。

 

③結局どうなったの?(指導の暴力をめぐる対立議論)

先に結果を述べるとA先生は我々が3年生の時に部の指導を解任されました。

夏の引退試合の2〜3か月くらい前でしょうか。

行き過ぎた指導にとうとう精神的限界が来たのか、ある日の部活動終了後に部員の数名からストライキをするという連絡網が回りました。 

それをきっかけとし、まるで堰が切れたように多くの部員が一斉にそこに続きました。翌日の放課後、部内の全員とそれぞれの保護者を交えた会議が行われました。

A先生の主張 

「厳しい指導をするのは一生懸命やっている生徒の為を思ってのことだ」

「実際生徒達は礼儀面、技術面共に成長しているし、成果も上げ続けている。」

「毎日彼らに尽くしているのに外側だけを見て、全然こちらの気持ちが伝わってなくて残念だ」 

生徒側の主張

「もう毎日叩かれるのがつらい。廊下で顔を見るだけで怖いし、頭が痛くなる。」

「部活に行くたびに暴言をぶつけられ傷ついた。いつも先生の言葉が頭をよぎる。常に人格否定をされている気分だ。もう耐えられない。」

「どこかの軍隊みたいな生活だ。」

 しかし逆に

「給料が上がるわけでもないのに、いつも休まずに我々のために指導して下さっている。日々の努力に応えてくれている。」

「今我々が試合で勝てるのは先生の指導があってこそだ。」

「我々の行動面に非があれば、叱られるのは当然。自分たちのためだ。」

「これまでの厳しい指導で身に付いた礼儀などの人間教育は、部活以外でも様々な場面で役に立っている。先生は正しい指導をしているかもしれない。」

「先生は我々の事が嫌いなわけではない。これは裏切り行為ではないか。」

ちなみに私はというと

「もう何が正しいのかわからない」

でした。なので周りから少し軽めに「ジン太郎はどっちの味方なん?」って反応をされました。

学校や保護者達が最終的に下した結論とその理由

「A先生を部活動の指導から外す」

これが我々の意見を聞いた保護者と学校が話し合って出した結論です。当時私が聞かされたその理由は

「どんな理由や大義があろうとも、暴力を用いて恐怖を与える躾はダメだから」

というものです。実際のところ様々な要因から判断されたのでしょうが。その辺は想像なので割愛しますね。

 

この話は、当時者である我々とA先生、そして保護者、副校長やB先生などを交え学校の一室にて互いに結論の合意確認を取り、A先生からの謝罪で締め、一旦のゴールを迎えたように見えました。

その後部員達の間でいろんな反応がありましたが以外と多かったのが

「取り返しのつかないことやっちゃった!?」

でした。

「え?自分らも合意してやめさせたんでしょ?」というのはごもっともな意見です。

まず合意確認のあの日、我々が目にしたのは、あれだけ毅然とした態度で強気な指導をしていたA先生が言い訳せずにただひたすらに「ごめんなさい」と頭を下げ続ける姿でした。

この光景は部員達の心に改めて「罪悪感」を叩きつけました。威力は抜群だったと思います。

そしていざ終わってみると何人かの部員が「一時の感情でこんな感じになっただけで、ここまでする必要なかったんじゃね?」といった不安を口にしはじめたのです。私もその1人でした。

その後の部活管理はB先生の受け持ちとなりましたが、基本的に職員室にいるだけで直接携わらなかったため、練習などの運営は部員達がやっていました。

顧問が見ているわけでもないのに引退試合に向けサボることなく積極的に向上心を持って部活動に取り組む自主性が身についたのは間違いなくA先生の指導のおかげだと生徒達は考えてます。

 翌年A先生は他の学校に転勤。その後は見ていません。周囲の大人達の中には「A先生が可哀想だ」という意見もありました。

卒業後に何度か当時のチームメイト達と会う機会がありましたが、集まる度に

「あの時の判断は正しかったのか」

という話題がちょいちょい出ていました。

回想おしまい

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  • 今回の事例のまとめ。(ジン太郎の見解。言いたかったこと。)

体罰含め指導に暴力を使う指導者は、少なからず「指導対象のため」になると思っていた。

②現場に長くいたことで、指導を受けた側はそれに対し正しい面もあると感じていた。

③実際成果に繋がっている事が一定の説得力を有していた。

④しかし結果的には生徒の心に傷を残す形となった。

当たり前のことですが、暴力指導の全てがこの見解に当てハマるわけではないと思っています。

この経験から私はずっと「指導に暴力を使うのは賛成か反対か」についてずっと考えていました。冒頭で述べた「反対です」という結論にたどり着いたのは。大人になってからです。過去の辛かった経験を美談にするつもりはありません。何故そういう結論になったのかは次回に述べます。

今回は過去の経験から、指導における体罰や暴言についての賛否両論の例について述べました。

 

あなたはどう思いますか?