ジン太郎の話

どう生きて行くのか、多様な世の中における人生の探求録

体罰に賛否両論を持ち込むのはおかしいでしょ。:正解のない問題②

 

jintarou-tai-gun-sai-yo4.hatenablog.com

おはようございますジン太郎です。

前回のエントリ経験編から1カ月、今回は前回続きで考察編です。更新が遅くなり申し訳ありません。

3月(2019年)に児童福祉法関連の改正案で「家庭内のしつけによる体罰」禁止が国会に提出されましたね。この改正案に関する記事ではいずれも「しつけ」を口実にして日常的に暴力行為が行われた件について触れています。

ちなみに近年学校での体罰は統計的には減りつつありますが、東京都では同教育委員会によると体罰は減ったが暴言は増えた(2017年)とされており、未だに深刻な社会問題だと思っています。

前エントリの経験編では、過去に私が経験した学校での事例を元に、指導やしつけの場面で日常的な暴力(以下本エントリでは言葉の暴力も含むものとする)が使われ、それが正当化される(ように見える)一連の流れをイメージしやすくしたつもりです。

また、これらの社会問題は子供の教育に限らず社会の様々な場面で類似するケースが散見しており、会社などに関しては近年の働き方改革パワハラ問題として少なからず目を向けられている印象です。

 

 

何を伝えたいの?

子供の教育に対しては、関係各機関の調査によれば日本では過半数近くが体罰容認派(地域にもよる)というデータが存在します。理由に関しては「場合によっては必要」という回答が多いそうです。

前回の経験編でも述べましたが、このような話には大なり小なり賛否両論があります。メディアやSNS等でも度々論争している場面が見受けられますね。

今回は「そもそも賛否両論に持ち込むこと自体おかしくない?」という話をします。

そこで、しつけや指導において暴力が使われる理由についてと、何故暴力は使ってはいけないのかについて自分の考えを述べます。

 

いろんな意見

まず私が集めたメディアやSNSや各機関の調査データのアンケートからよく見受けられる、反対派と容認派の意見をザックリ次にまとめますね。経験編を読んでくださった方はそれを思い出しながら容認派の意見をご覧下さい。

・反対派(指導受ける側も含む)

①人権侵害:相手に危害を加えるのはいけないというシンプルな一般論ですね。

②法律で禁じられている:①に近い意見ですが、社会における線引きの一つです。

③指導対象に悪影響だ:モチベ下がったり、人格歪んだり、酷ければ怪我や自殺や殺人に至りますね。

ちなみにしつけに精神的又は身体的暴力を使うと人間の脳の発達に深刻な悪影響が出ることは近年の研究で科学的、医学的に証明されつつあります。

・容認派(指導を受ける側も含む)

①愛のムチだ:「相手を思えばこその対応だ」という主張です。「痛みが教訓になる」と主張する人もいます。精神力強化の指導に有効だという意見もあります。

②暴力じゃないと更生しない人もいる:「口で言うだけじゃダメな相手だから」という主張です。

③相手側にも問題がある場合がある:②と関連してですが、つまり指導対象の行動によっては「そういう対応をされても仕方ない」という主張ですね。

④実際に効果がある:これは実績込みで主張されます。たしかに一見説得力あるように見えますね。

⑤甘やかしてたら子供のためにならない。:大抵本人の経験談として主張されます。

他にもいろいろあると思いますが、一旦このくらいにしときます。

 

容認派の意見は主に経験編でのA先生やそれを支持した人達からも聞いた意見です。

 

社会のルールではどうなっているのか

まず学校での体罰に関しては学校教育法第11条で明確に禁止されています。

この話をすると大抵「じゃあ教師は生徒から殴られようが蹴られようが無抵抗でいろっていうのか!」みたいな事を言う人達があらわれます。

あたり前のことですが(ホントあたり前のことですが)それはそもそも体罰云々以前に当防衛関連の法律が適用されるのでもはや体罰とは別問題です。

ちなみに教師の正当防衛が成立する事に関しては文部科学省の通知文にわざわざ明記されてます。

学校の体罰は統計上は減りつあり、家庭内のしつけによる暴力や会社でのパワハラ等は近年法規制が整備されつつあります。

みなさんもご存知の通り、この社会情勢を見て「息苦しい世の中になった」と言う人も少なくないですが、そもそも戦後民主主義化してからの日本の法律って「例え上の立場でも個人の人権を侵害してはダメだよ」といった事が明記されているんですよね。今までまかり通ってたのがおかしいという見方もあります。

シンプルな話、相手が思い通りに動かないからって攻撃して良いという理由にはなりません。

ちなみにこの流れは世界でも同じ認識であり、少なくとも世界50ヶ国以上が体罰を法律で禁止しているため、人によってはこの点において日本は後進国だという意見もあります。

 

じゃあなんで暴力が使われるの?

先にも少し述べましたが、体罰や暴言による指導は、知能や理解力や人格形成、感情制御など、人間の脳のさまざまな発達に対してかなりシャレにならないレベルの悪影響が出る事が研究者によって医学的に証明されつつあります。医学的にも法律的にも暴力による対応が間違っているとされている中、何故これらの指導がまかり通ってしまうのでしょうか。

上記でも述べた通り多くの場合、当時者にとって暴力は「相手を潰すため」ではなく「相手を教育・育成するため」の手段です。

容認派の人達は割と本気で相手のためになると信じていたからこそ、今日の社会問題として扱われるまでに浸透していったと考えられます。

「私は殴られて(あるいは罵声を浴びせられて)育った。結果的にそれで良い方向に成長したので感謝している」という意見がありますが、そういう人がいざ教育者の立場に立って同じこと繰り返すってよくある話ですよね。

こういった人達は「悪い事をしよう」と意識して相手を攻撃している訳ではありません(例外はある)。彼あるいは彼女らがそういった対応をするのは本人達にとって「他に方法がないから」あるいは「それが最も効果的だから」です。

なのでぶっちゃっけ私は法規制や厳罰化によって表向きの発生件数が減っても、心の中では体罰は必要と考えている限り根本的な解決にはならないと考えています。

 

結論:そもそも暴力は教育手段ではないので賛否両論も何もない

必要なのは本来の目的「教育・育成のため」という点に注目して意識を変えることです。

つまり「暴力は法律でダメだから」ではなく(もちろんそれも大事です)、そもそも暴力は教育・育成において有効ではない」というマインドが浸透しなければ、根本的解決にはならないのではないのでしょうか。

たしかに暴力を使う事によって、問題行動が更生し一時的に成長したように見える事もあるでしょう。

しかし彼あるいは彼女ら教育者は大抵の場合、指導を受けた教育対象の卒業後の人格形成や成長に及ぼす悪障害、また教育対象本人が将来新たに教育者の立場に立った時に起こりえる暴力の連鎖、それによって発生した事件や事故に対しての責任は取りません。

なんらかの精神疾患が大人になってから発覚し、その原因が子ども時代に受けた暴力や暴言によるものであったケースも少なくないです。

また「俺(私)は当時たしかに乱暴な指導だとは思ったけど今思えば自分のためになったよ?」や「お互い信頼関係があって納得しているならよくない?(NAR◯TOのガ◯先生とリーのような関係)」という意見もあります。

つまり「本人達が良いなら良い理論」ですね。しかし残念ながらその時に納得していても自分が及ぼされた悪影響に無自覚な可能性があります。ほとんど結果論になる上に一つ一つの案件をそんな曖昧な線引きで分けていては何か悪いことが起こった時に手遅れとなります。その子への悪影響のリスクを負ってまですることでしょうか。

たまに「甘やかして育てられた子の成長に対して責任を取れるのか」という意見がありますが、ここまで述べた視点に立つとむしろ逆と言えます。

例え小規模(これも曖昧な本人のさじ加減)だとしても「安易に暴力を使う事で、その子の成長に対して責任を取れるのか」という話になるのです。

そもそも暴力を使うのって一般的に犯罪なので教育に対する責任以前に社会人としての責任問題ではないでしょうか。

そして「なら代替え案として暴力以外の有効な教育手段を出せよ」という意見がありますが、これまで述べた法的観点・脳科学的観点・精神医学的観点・教育効果的観点そして一般論からも、そもそも暴力とは教育手段でも何でもないただの犯罪行為である事がわかります。

どういう意図であれ有害性が証明されつつある今、それはただ「相手を力づくで従わせているだけ」の行為でしかないため、教育手段の選択肢として引き合いに出すこと自体がおかしいのです。体罰や暴言はもはや教育手段とは別の領域の問題になっています。

例えば「スポーツでルール外の道具持ち込んで良いかどうか」、もっと言うなら「サッカーする時にピッチにハンマーを持ち込んで良いかどうか」とかレベルの論争だと思ってます。普通イチイチそんな事で賛否両論起こらないですよね? 

 

以上の理由から私は指導における暴力は反対です。

参考にしたデータや資料は権利関係の理由で本エントリには詳細は載せませていませんが、ググればすぐ出てきます。これを読んでくださった方々が少しでも関心を持っていただければ嬉しいです。

今回は指導する側の対応について言及しましたが、私は指導を受ける側のマインドも重要であると考えているため、機会があればまた書きます。ありがとうございました。

 

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