戦争の被害者?加害者?多角的に歴史を見よう。:正解のない問題⑦
久々の更新です
あれからいろいろあって社会系の科目の教員として働くようになりました。
さっそく本題ですが本日は終戦記念日です。
先日放課後に生徒との世間話で、生徒Aさんから気になる話があったので、身バレしない範囲で話します。
テーマは「相手の立場を理解する」といったところでしょうか。
Aさんの話
Aさん「私は昔から終戦時期に関する歴史の授業が苦手でした。
特に苦手なのは沖縄での多大な犠牲や、原爆の落ちた広島や長崎の話です。
その理由は、この話が授業で扱われるときに当時のアメリカへの批判や、酷いときはアメリカへの悪口がクラスの中で飛び交うことがあるからです。
事実を扱うのは良いと思います。しかし私の家族にはアメリカ人がいます。確かに当時の日本の人々が戦争で悲惨な目にあったことは理解しています。ですがそれと同じくらいアメリカ側の言い分を私は家族から聞いていました。もちろん私の家族は当時の日本側の言い分も理解してくれています。だけど.....」
その後もAさんは意見を言ってくれました。
Aさんは私の担当クラスの子ではありませんでしたがこの話は、歴史を教える立場としてかなり重く受け止めざるを得ないものでした。
日本の学校では多くの場合、修学旅行や遠足など、沖縄や広島への遠征行事にて、あの惨劇を経験した現地の人々の話を歴史教育として聞くことがあります。
Aさんはその行事がコロナによって中止になってホッとしたと打ち明けてくれました。
戦争は多からず少なからず、被害者的側面と、加害者的側面があります。
その見方も意見も立場によって異なっています。
Aさんとの会話は、歴史を片方側からだけ見ることへの違和感と、その危うさについて、教える立場の私に改めて気づきを与えるものでした。
そして子供たちの多くが歴史を多角的に見ることができる授業の重要性を改めて教えてくれました。
もちろん当時の担当教員がアメリカに対して批判的な授業を行ったわけではなかったとAさんは言っていました。
しかしAさんを取り巻く周囲の人間がそれをどう捉えるかは別です。
少なくともアメリカを批判した別の生徒にとっては、日本の被害者としての立場だけが強調されて見えたのかもしれません。私の想像ですけどね。
そんな時、教室全体が歴史に対して一方的な物事の見方をしないように投げかけること求められます。
例えば「では何故、○○の国はそういう行動をとらねばならなかったのだろうか」などです。
もちろん個人がどちらかの立場で意見を持つのは構わないと思います。しかし教育は別です。何故なら、何が正しいかどうかを決めるのは教員ではなく生徒だからです。
それが民主主義です。
この手の話をすると、テレビ番組などメディアからの情報発信が偏っているのではないかという議論が挙がるので、それに関してもここで触れておきます。
先に言うと私は受信者側にも課題があると思っています。
何故ならメディアは多くの場合、会社員なのである種の個人の発信と言えます。
会社員である以上、利益を出さないと食べて行けません。
戦争の被害者的側面もしくは加害者的側面のどちらかを強調したほうが数字が取れて、儲かるなら、それ自体が悪いこととは言い切れないと思います。需要に答えてビジネスしているだけですからね。
なお、公費で運営されているNHKについては扱う内容について議論の余地があると思っています。
問題は、受信者がこれらの事情をわかった上で内容に共感しているのか。それともそれを理解せず「ニュースでこう言ってたからこう」とただ見た内容を鵜呑みにしているのかでは話が違います。
「正しさの決めつけ」ほど危険なものはありません。
ではどうすれば良いのか、私が考える健全な手順は
受信する→受信した内容を理解する→発信者の意図や立場を考える→受信した内容について必要に応じて調べる→自分の考えとすり合わせる。→自分の意見を持つ。
などでしょうか。メディアリテラシーってやつですね。
多くの場合、自分が得た情報や教育は、発信者の意図が介在しています。
それを読み解くことができなければ、片方の意見だけを尊重した生きづらい世の中になるでしょう。そういう意味でも我々教員の責任は重要だと思います。
みなさんはどう思いますか?
教育と民主性・社会性:正解のない問題⑥-3
教育と洗脳は紙一重?
教育によって民主的な社会は維持できるのか
について考えました。
この記事は三部構成で、下記に貼ってある前回の記事の続きですが、民主主義と全体主義の違いがザックリ分かっていれば、この記事からでも読めるようになっています。今回は日本の話です。
jintarou-tai-gun-sai-yo4.hatenablog.com
社会の民主性って何?
さて、皆さん。民主性ってどんな意味を指すと思いますか?
ググればいろいろ出てくると思いますが、「主権が国民にある状態」とかそういう意味ですね。
言い換えれば
- 自分達でいろいろ決めることができる状態
- 人それぞれの考えの違いが尊重される状態
この二つが民主性を保つ条件だと思います。
前回までの記事の要点ですが、
香港の人たちは何故抗議しているのか。
それは「自分たちで決めることができない」からです。
何故問題なのか。
それは「様々な立場や考えの人がいるのに、その多様性を無視して、権力者の価値観に国が左右されるから」です。
そしてその基盤を作るのは教育だと僕は思います。
教育が全体主義的になるとどうなるのか、
現在の中国は独裁国家として国民の自由が認められていません。
過去の日本では、軍部の独裁により国民の多くが戦争への犠牲を強いられました。
これは僕の私見ですが、現在の日本でも個人よりも全体の利益を優先する風習は少なからず残っているらしく、これがブラック企業問題や、国際的に上位な自殺者数といった社会問題につながっていると思っています。
実際学生バイトやサラリーマン時代にそういう経験あったし.....笑
なんなら中学校時代に独裁組織にいたので因果関係を感じてしまいます。
ちなみにその話は過去記事に書いてます。
jintarou-tai-gun-sai-yo4.hatenablog.com
教育が民主性を失うとヤバいって話は、もうしたので
ここからは身近なモデルケースを参考に話します。
教育の民主性・モデルケース:服装の規定
とある公立中学校の職員会議で次のような議題が挙がりました。
議題:現在新型コロナウィルス感染対策の観点から、洗いやすいジャージでの登校が可となっている。特定の行事では制服登校となっているが、靴下やインナー等に黒や白や紺、もしくは落ち着いた色といった指定を加えるのはどうか。
理由:現在三年生は受験シーズンである。受験では、相応の服装が求められる。ジャージ登校が日常となっているため、改めてTPOをわきまえるための指導をする観点と、受験という試練に対して一致団結の一体感を出したい。
皆さんはどう思いますか?
ちなみにこの時は反対意見が多く、一旦再検討となりました。
ちなみに僕は反対です。
反対意見(ジン太郎の意見含む。詳しくは後述)
- 今までなかった制約を突然加えるのは生徒も納得しないかも。
- TPOは大事だが、受験は別としても、相応しい服装の定義が曖昧である。
- 安全面に配慮した上で自由意志や多様性は尊重されるべき。
- そもそも一体感というのは絶対ではないし、職員がどうこう言うものではない。
- 生徒に意見を聞くべきだ
- 新校則としてとらえるのならこの職員会議だけでは決められない。
- 公立学校の「制服」は、正式には「標準服」であるため職員が指定するには限度がある※
※補足:学校の制服とは、正確には「標準服」です。
公教育(みんなのための教育)である以上「どんな服を着るのが適切かわからない」や「経済的理由で着ていく服が足りない」あるいは「服装から経済格差が露見する」などへの配慮から、「標準の服」を全員分用意する。これが標準服の意義であり、本来強制力は持たないものである。という立場の主張です。
賛成意見 (僕の反論も書きますね)
- 集団生活、特に受験という試練の前では一丸となって規律意識を持つべき。←あくまで個人の思想の範疇を出ない。
- 洗う手間の少ないジャージ登校にしてから、床で寝転ぶなど生徒のだらしない行動が目立つ。←制服にしても生徒の中身の本質が変わるわけではない。生徒は一生制服着るわけではないから、態度から指導するべき。
- 規律意識の低下が問題視されているため、服装の影響は大きいのではないか。←上と同じ。
- コロナ過で人とのつながりが薄れている。一体感は大事。←服装同じにしただけでつながりを感じるだろうか。
論点
論点➀:学校の民主性・社会への影響
僕の意見を述べます。さっきも言った通り反対です。
何故なら、ここには主権者たる生徒と保護者の意思決定が介在していないからです。
民主的社会を保つ上で重要なのは、主権者の意思決定、つまり「自分たちで決めること」です。主権者とは、国であれば国民。学校であれば生徒やその保護者です。
政府や学校職員はあくまで調整役に過ぎないと僕は考えます。
まず今回の提案の根幹には「全員で統一すること。これが集団生活において重要」という前提があります。
その思想が国家レベルで力を発揮するとどうなるのか。
それは全体主義国家の始まりとなります。
全体主義社会とは、
いわば「規律を守ること=みんな同じであること」です。
ここに多様性は認められません。多様性は集団生活の輪を乱す悪と見なされます。
逆に民主主義は
「違いがそれぞれあること=話し合って決める」
なので、主体性を持って自律することが求められます。
学校教育は社会に出る前の人間的基盤を作るところです。たかが服装のルールだとしても社会への影響は無視できません。
論点➁:そもそも一致団結する必要があるのか・「規律」とは「社会性」とは
改めて今回の問題点を大きく分けて二つ
- 服装に制約を加えることで、生徒の育む社会性が限定されるのではないか
- 生徒や保護者に意思確認をするべきではないか
たしかに子供達が将来社会の秩序を乱さないように、規律意識を教育することは大切かもしれません。では規律意識とは何でしょう?みんなと違う自分の意見を主張することは悪いことでしょうか?
「理想の社会」とは何か。人によって考え方が違います。
集団に同調させることが教育ではないと思います。
子供達が将来どのような仕事に就くのか、どのような組織に所属するのか、あるいは組織活動から独立して生きて行くのか。
一致団結することに意義を感じる者と、そうでない者。両者とも社会においては必要な人間ですし、活躍している事例はいくらでもあります。
そもそも一致団結とはどういう状態を指すのかさえ人によって違います
人間が獲得できる社会性はそれぞれ違っています。その連なりが民主主義社会です。
ちなみに
私立中学校や、義務教育外である高校では、比較的こういった問題は起こりにくいと考えます。
何故なら私立中学や高校(公立含む)は、その学校を選ぶときに何らかの意思決定が働くからです。
「どういう学校か特徴も分かったうえで選んで入学したんだよね?」と言えます。
試験などの一定の基準を設けて入学しているため同質性が高い人間が集まります。
公立中学校の場合、ほとんどの子は「その地域に住んでいたから」以外にその学校に入る理由はありません。
なので、公立の生徒の同質性は「地域性」くらいのものでしょう。たしかに地域性は重要な要因ではありますが。
しかし義務教育は「全員」が受ける教育です。「公的機関(みんなのための機関)」である以上、特定の思想のみによる教育ではなく、私立以上に多様性への配慮が必要となってきます。価値観や個性による格差はなるべく合理的に減らすべきです。
制約を設けることによって、あるいは設けないことによって、その子の本来持っている感性や能力を潰してしまうかもしれないし、逆に伸ばすこともできます。
そして教育環境の影響を受けた生徒達は将来社会を築いて行きます。
学校の常識ができるまで。
「クラスで一致団結」
義務教育で常識的に使われがちなこの考え。皆さんは疑ったことありますか?
個よりも集団を重視していているようなこの風潮には歴史的な背景があります。
日本の公立学校は、明治時代の開国期に
「外国に負けない国作るぞ!国民皆学や!」
ってところから始まりました。そして
「外国の軍事力ヤバくね?富国強兵しなきゃ!」
となり、教育勅語は出され、それ以降「みんなで一致団結して立ち向かうぞ!」という軍国教育となります。
日本の全体主義化は教育によって浸透したのです。結果的に戦争で沢山亡くなりました(教育勅語やこの話は前回の記事参照)。
敗戦後、アメリカによって民主主義化した日本ですが、その後の奇跡の復興や、高度経済成長は、間違いなく当時の人々が「一致団結」して頑張った結果です。
「24時間働けますか?」といったスローガンが流行ったり、戦後においても個より集団を優先して貢献することが求められていたのは、歴史の皮肉だと思います。
現在の学校教育には、この頃の名残が少なからず残っていると思います。
現在の公教育のルールを決めている偉い人たちは、まさに集団組織活動に重きを置いていた時代を生きた人たちです(いい加減アプデしてほしいな~笑)
このような背景が、現在の学校の「当たり前」を作っています。
今回の議題を提案した人だって、別に独裁がしたかったわけではありません。純粋に服装を揃えて生徒が一致団結することに意義があると思っていただけです。
潜在的にそういう価値観が刷り込まれていたのか、それとも学校の実情や何らかの合理的背景を鑑みてそう判断したのかはわかりません。
実際、みんなで団結するって素敵な事ですし。
ただそれだけが正解とは限らないよね?
いろんな意見があって良いと思います。それが民主主義です。
どうすれば良いかな?・ジン太郎の意見
どうしてもルールを決めるのであれば、生徒間で投票とかにすれば良いのではないでしょうか。実際生徒会など、民主的なシステムは既に学校に存在します。
発達途中の子供だけに判断を委ねるのが不安であれば、保護者にも意見をうかがうなどすれば良いといます。
最終的には職員が調整に入るべきだとは思いますが。
生徒が主体的に意思決定すること。「自分たちで決めた」と自覚することが必要です。
ちなみに東京都千代田区の麴町中学校では、民主性・主体性という観点から
宿題、担任制、中間・期末テスト、体育祭の全員リレー、頭髪指導などを廃止しました。
教育と民主性を考える上でとても参考になる事例ですので是非ググってみて欲しいです。
最後に
ちょうど同じタイミングで、制服に関する署名活動を見かけたのでシェアします。
*校則見直し 署名にご協力ください*
— 斉藤ひでみ/現職教師(Yuji Nishimura) (@kimamanigo0815) 2021年1月30日
制服は強制力のない「標準服」にしませんか?
きっと、過度な身だしなみ指導もなくなります
学校はもっと多様で寛容で、学びに集中する場所でいい
そしてコロナ後の日本を少しでも優しい社会に…!#制服と私服の選択制に賛成しますhttps://t.co/IkWK3bhZO0
選択制にに関しては、様々な価値観に配慮した良い案だと思い賛同しました。
あなたはどう思いますか?
香港デモと日本の民主的教育について(後編):正解のない問題⑥-2
香港の話の前篇を書いてから、この後編を書いた8月までの間に香港の教科書から「三権分立」の記述が消去されるニュースが報道されましたね。
今まで香港の民主化運動の背景を知らなかった方も、こちらの前編を読んで下さったのであれば、
何故「三権分立」記述の消去が問題視されるのかご理解いただけると思います。
jintarou-tai-gun-sai-yo4.hatenablog.com
さて今回の話のポイントは3つ。
- 香港はわかったけど日本と何の関係が?
- 全体主義も民主主義も教育が社会の基盤を作る
- 受けた教育をどう解釈し活用するかは自分たち次第
目次
➀民主主義と全体主義の道徳基盤
突然ですが皆さん、
"正しい道徳"ってなんだと思いますか?
「他者を不条理に傷つけない。」とか「大切なものを守る」とか
いろいろありますよね。
道徳的な考え方はそれぞれの立場によって異なるでしょう。
しかも大抵の場合は、どれも一定の正当性を有していると思います。
では、中国と香港の対立にはどのような道徳観の相違がみえるのか。
全体主義 (中国)VS 民主主義(香港市民)
- 全体主義の道徳的主張(正しさ)
みんな(国家)の為に一致団結して、一人ひとりが全体に尽くしましょう。
個人よりも全体(国家)の利益を優先しましょう。
- 民主主義の道徳的主張(正しさ)
みんな(国民)が納得して暮らせるように、話し合ってルールを決めていきましょう。
個人それぞれの意見や行動を大事にしましょう。
⇓
ここでいう「みんな」という言葉が指す意味は「国家」なのか「個人」なのか。
国家の為に国民がいるの?
国民の為に国家があるの?
あるいはその両方なの?
国という存在、社会システムのあり方について、昔から議論は絶えません。
少なくとも中国は共産党の主張する"正しさ"に基づき、
共産党を中心とした思想及び情報統制によって管理社会を運用しています。
そのやり方に対しては、
「それ、共産党による独裁では?」
と言った批判が香港や国際社会から多数寄せられ、それが香港デモにも繋がっています。
では本題に入りましょう。
中国や北朝鮮のように、「独裁的だ」と国際的批判を受ける国は過去にも存在していました。
「ファシズム」
と呼ばれる思想を掲げ他の国々と戦いました
ファシズムとは、全体主義をさらに独裁的、軍国的にした、反対者に対し、かなりの攻撃性を有している思想です。
これに近い思想(同じと言う見解もある)を掲げて世界に喧嘩を売った国が、アジアにありました。
皆さんご存知ですか?
大日本帝国っていう国なんですけど。
ボクの記憶が正しければ確か今は「日本」と呼ばれている島国です。
②中国共産党と昔の日本の共通点
我々が今暮らす日本は民主主義の国です。
一つの権力者に支配されてはいないし、政治批判をしても誰かの人権を侵害しない限りは捕まりません。
しかしかつての日本は「全体主義」もしくは「ファシズム」と言われても仕方のないような体制でした。
次にジン太郎が考えた今の中国と昔の日本との共通点をザックリ挙げていきます。
【主権】
今の中国:共産党
昔の日本:天皇
- 天皇崇拝は絶対。
- この日本という国は天皇という神聖な存在によって成り立っていて、我々が暮らせるのは神話から受け継がれてきた天皇陛下の恵のおかげ。
- 天皇=国であり、お国のために国民が頑張るべき。
- 天皇はこの国、さらにはアジア、いや世界の頂点に君臨するべきお方なので日本がアジアを導いて世界と戦おう(軍部の暴走)→アジア諸国の支配→欧米列強との戦争へ。(この件に関して、後に昭和天皇は本意でなかったと言っている)
天皇陛下バンザーイ!!
【思想管理や言論統制】
今の中国
昔の日本
- 天皇陛下の批判は重罪です。絶対口にしてはいけません。
- 軍部が頑張って戦っています。戦争に反対する人は非国民(悪)です。
- お国全体のために国民全員が資産を国につぎ込んでください。
- 自らの犠牲もいとわず命をかけて尽しましょう。
- 愛国心があればできるよね?みんなのためだよ。
- 反対する人は非国民です逮捕します。
【道徳教育や情報統制】
今の中国
- 共産党を中心とした考えを愛国心として教育している。
- 共産党が正義であり、反対することは悪いことだと教わっている。
- 毛沢東の大躍進政策(知らない人は調べてちょ)での政策的失敗の詳細や、天安門事件といった負の歴史を隠している。
- インターネットも管理している。
- 自分たちが上級民族だからウイグルとか周りの地域は従え。
昔の日本
- 「教育二関スル勅語(以下:教育勅語)」に基づく道徳教育がされていた。 (※下記に詳細)
- 教育勅語によって、天皇崇拝と国への忠義の心。個人の利益よりも国家(=皇室)への奉仕が正義だという教育思想が根付いている。
- 日本国民は民族的に他の国より上位の存在だからアジアを支配して良い。
- 満州事変での日本による自作自演のテロ行為や敗戦の情報は国民には伝わらない。
- 勝利報告などのフェイクニュースが流れる。
※教育勅語について
教育勅語とは、
「我が国は天皇という神話からの存在によって成り立っている国です。国民がしっかり勉強し、よく働いて、みんなが一丸となって皇室が君臨するこの国のために頑張りましょう」(ジン太郎要約)
という天皇の言葉です。
これを出した背景には、明治時代での日本の近代化、西欧列強の国々への対抗意識による富国強兵思想がありました。
当時の天皇は、政治に対して絶大な権限を有していました。
その天皇の御言葉である教育勅語は、明治時代から日本の全体主義化(僕はファシズムだと思ってる)と軍国化を促した大きな要因の一つとされています。
結果として(あるいは軍部の目論見通りに)教育勅語は戦時下にて「天皇の為にみんなで戦いましょう!」という意味合いで機能し、国民を戦争に駆り出してしまいました。
もちろん反対することは許されませんでした。
⇓
ね?そっくりでしょ?
今の中国と昔の日本の道徳(社会)思想の共通点を大まかにまとめると、
- 個人よりも全体への利益を最優先にすること。
- ここでいう‘‘全体‘‘とは国家やそれに準ずる組織や人物のことであるということ。
です。
かつて日本はこの思想によって、世界中の人権を侵し、日本にも世界にも多大な犠牲者を出しました。
そして現在の中国では、香港の人々が反対デモを起こしています。
日本が今のような国に変わったのは敗戦時の1945年~46年です。
日本を占領したアメリカは
「日本は今後、民主主義国家に変えた方が良いよね!」
と大改革をしました。
これが現在の日本の民主社会の始まりです。
では、現在の日本は昔と比べてどのように変わったのか。
③今の日本の民主主義
戦後日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の改革によって民主主義国家に変わりました。
まず戦前から戦後の日本の変化について、今回の話と関係あるところを述べます。
【主権】
- 天皇→国民に変わる
- 天皇はあくまで象徴であって、政治を動かす権限はない。
- 政治や社会を動かすのは国民。国民のみんなが幸せになるルールを国民同士で話し合いで決める。
- 選挙は投票権も参政権も男女平等で20歳(今は18歳)から全員にある。
【思想や言論や行動】
- 自由。日本国憲法で認められている。
- 社会に対する批判を含め、いろんな意見が存在して良い。
- ただし誰かの人権や公共の福祉を侵してはいけない。
- 人に対して自己犠牲を強いたりすることはできず、個人の尊厳より組織の利益を優先させることもできない。
- 戦争もしない(自衛はする)。
【道徳教育や情報】
- 教育勅語の廃止。
- 民主主義に基づいた道徳教育をする。
- 公教育は政治的中立性を保つ必要がある。天皇や国家崇拝の思想が反映された教科書や指導は廃止されるようGHQがチェックを入れた。
- 報道の自由もあるため、メディアが政治に対して批判的ニュースを報道しても捕まることはない。しかし誰かの人権を侵したり、嘘の報道をしたりすれば罪となる場合がある。
- ただし南京大虐殺などの他国に対する負の歴史は「捏造ではないか?」といった議論がある。
以上
ご存知の通り、これらのルールは日本国憲法に定められており、その基盤は
の三大柱です。
つまり日本は
天皇崇拝のもと、偉い人たちの言うことをよく聞いて従い、身を粉にして一致団結し他国を蹂躙 する国
から、
自分の考えを持って、それぞれ違った意見や行動を尊重して、みんなが納得できる落としどころを平和的に話し合う国
に
変わった”はず"です。
ここだけ見ると、今の中国とは大違いに見えますよね?
何故なら教育と社会は互いに影響し合うからです。
実際に日本が全体主義に傾向した大きな要因は、外国という脅威に対する富国強兵と、教育勅語でした。そのため、教育勅語をはじめとする、皇国神道が反映された教育内容を廃止して教科書も大幅に修正されました。
④今の日本の民主主義教育への疑問
前提として
- 人間の道徳的感性は、生まれ持っての性質とその後の人生経験や周囲の環境などから刺激を受ける事によって形成される。
- 教育による人間の人格形成への影響は大きい。
- 社会とは様々な人格を持った人々の集合によって形作られる。
なので
道徳教育は社会の方向性を決める上で極めて重要です。
では、日本の政治や道徳教育はどうか。
④-1教育の政治的中立性
まず、皆さんに質問です。
学校で教員が授業中に「子供を戦場に送るな!」と主張した場合、それは政治的中立性を逸脱してると思いますか?
人によって意見が割れるでしょう。
民主主義である以上、日本において学校が子供達に特定の政治思想を植え付けるのはアウトです。
これは法で決まっています。
何故なら
民主主義における良い社会のあり方とはみんなが自分達で考えて決めること
だからです。
だから学校では政治は中立的観点で教育しなければいけません。
でもね?
よく考えて見ましょう。
日本の公教育の運用を司っているのは文部科学省です。
そもそも日本の各省の国務大臣は誰が選んでいるか、皆さんご存知ですか?
それは内閣総理大臣です。
つまり今の文部科学大臣は、自民党の安倍総理(これ書いてる間に辞任表明したけど)が選んでいます。
そこで僕は思いました。
「自民党の価値観やらが、なんらかの形で教育内容に影響しないのかな?」
というか本人たちが意識しなくても影響すると思います。
もちろん、現在日本の学校と自民党がグルになって、中国共産党のように大体的な思想教育をしているわけではありません。
しかし議論の余地はあります。
例えば2016年、インターネット上の自民党のサイトに
「学校教育における政治的中立性についての実態調査」
というページがありました。
これは学校教育で
「政治的中立を逸脱するような不適切な事例」
が生じた場合、
「いつ、どこで、だれが、何を、どのように」
といったかなり具体的内容を報告できるフォームとなっていました。
確かに選挙権を持つ前の子供が特定のイデオロギーに染まるのは危険です。なぜなら洗脳教育ができてしまいますからね。
ここで問題なのは、
「”中立”教育と”偏向”教育。その判断は誰がするの?」
ということです
少なくともこのフォームが開設された当初、ホームページには
"教員の中立性逸脱の例→「子供を戦場に送るな」という教員の主張"
と記載されていました。
つまり
教員「子供を戦場に送るな!」
↓
生徒や保護者「って〇〇学校の先生が言ってました(書き込み)」
↓
自民党「この教員は政治的中立を逸脱してる!」
となると解釈できませんか?
確かに、当時は(今でも)戦術的自衛権の行使云々や憲法9条解釈問題など、かなりデリケートな部分があったため、教員も言葉は慎重に選ぶべきだとは思います。
しかし、
「子供を戦場に送るな!」
は政治思想以前に、道徳的な常識ではないのか?
と言った議論や批判が起こるのも当然だと僕は思います。
ちなみに同サイトの逸脱の例に関する記述は後に
「子供を戦場に送るな!」→「安保関連法は廃止するべき」
と変わり、最終的に記述そのものを消去しました。
このフォームは現在閉鎖されていますが、当時の教員たちを震え上がらせるには充分だったと思います。
先生の立場で考えると社会科の授業怖すぎですよね。
ここで僕が思ったのは、
民主主義を掲げても、政治的中立の定義は人それぞれ違うということです。
さらに新たな課題が判明しました。
それは、
「誰にとっても共通の道徳的常識」について、議論の余地がある
ということです。
「道徳的常識」だと思って話していたら「それは政治思想教育だ」って言われるパターンもありますからね。
次の項目でもう少し述べます。
④-2道徳思想教育に普遍性なんてあるの?
皆さんに質問です。
「目上の人を敬う」ってどういう状態?
割と日本では常識のように浸透している(と思う)この風潮。
本当に民主的に決まったもの(つまり、みんなで考えて決めたもの)なのでしょうか?
「従う」と「敬う」の違いは?
全体主義の国家では、個人よりも全体の利益を優先することが道徳的美徳とされていました。
このように道徳観を画一化すると、それと異なる価値観を持つ人々は、自分の意見を言いづらくなります。
結果、社会の多様性が損なわれ、民主主義が失われ始めます。
つまり教育現場で
「これが正しい道徳だよ」
と固定しすぎると、権力者にとって都合の良い国民、都合の良い社会になってしまう可能性があるのです。
では日本はどうか。
2018年当時の文科省大臣が
「教育勅語は現代風にアレンジして使える分野もある」
と発言をしました。
もちろん、大臣も日本を戦前の天皇主権に戻そうと言っていたわけではありません。
実は教育勅語って、文面だけ読んでみると、
- 「家族や友達を大事にしましょう」とか
- 「全ての人に愛の手を伸ばそう」とか
- 「社会のために自分の能力を伸ばして貢献しましょう」とか
- 「ルールを守りましょう」とか
- 「慎んで相手を敬いましょう」とか
道徳的に凄く良いことが書いてあるように見えるんですね。
教育勅語の”当時”の問題点は、
道徳性の中心が「皇室への献身」に帰結するため、
民主主義的ではないことでした。廃止された理由もそうです。
そもそも民主的に決まったモノでもないので。
なので、大臣の言う「現代風のアレンジ」というのは、
「国民に主権を置きつつ、教育勅語の文面にあった道徳的思想の一部は民主主義においても今後教育で使える部分もあるのではないか?」
ということだそうです。
意見は人それぞれあって良いし、実際どういう意図で言ったのか僕はあまり気になりませんでした(当時は結構ビビったけど)。
なので教育勅語の現代風アレンジとやらの良し悪しの話は置いておきます。
多様な意見を尊重してこその民主主義だと思うので。
それよりも僕がこの件で気になったのは、
「”普遍性のある道徳”って教育できるものなの?」
ということでした。
だって民主主義の前提って考え方の多様性を認める事だよね?
- 貧しい家庭や裕福な家庭。
- 虐待を受けた子供とそうでない子供。
- 競争社会にいるサラリーマンと公務員。
- 他にもLGBTといったマイノリティ。
人それぞれ価値観も信じる正義も違っています。
なのに、
誰にとっても、どの時代にも共通する普遍的な道徳なんてホントにあるのか?
確かにいくら自由が認められていても、殺人とか他者の人権を踏みにじるような行為はアウトです。
このレベルの話ならむしろ常識だし、普遍的といえるでしょう。
でもそんなの既に日本国憲法で示されてるよね?
わざわざ改めて道徳思想を定型化する必要ある?
それをやったから昔日本はあんなことになったし、
戦時中の軍国主義だって「日本のために!」という文面上は良さげな道徳観を掲げていました。
民主化された戦後だって、高度経済成長期やバブルの時は、企業に尽くすことが良いことみたいな風潮があったと聞きます。
勢いに乗って「24時間働けますか?」みたいなこと言って、根性出して朝から夜遅くまで一生懸命働くのが立派とされる道徳観もあったはずです。
どれも当時は良いこととされていた空気感が少なからずあったのではないでしょうか?
現代だって未来ではどんな評価をされるかわかりません。
ブラック企業問題だって「真面目」とか「社会貢献」とか「責任感」とか、そういう個人より全体を優先する美徳観によって不当労働させられているサラリーマンとかが問題になってんじゃないの?
って思ってしまいました。
僕の意見をまとめると
- 道徳は何かによって定型化させるのは無理。
- その時々の最善の道徳観をみんなが常に考えて追及していくべきものである。
- 道徳観を誰かに押し付けた瞬間、社会は全体主義に傾向するかもしれない。
- これらの内容は教育による影響が大きい
ということです。
④-3学校の道徳教育:道徳科について
日本の学校では「道徳科(正式名:特別の教科である道徳)」という教科を要として、学校教育全体を通じて行うものとしています。なので「道徳科」の時間だけで完結するものではありません。
最後にこの道徳科について少し話します。
【改正の理由:「道徳の時間」課題】
皆さん道徳の時間ってどんなことをやってましたか?
我々が子供の頃は、たいていは教科書とかにある読み物を読んでその内容について思ったことを書いたり言ったりする授業でした。
「心ノート」とかいうよくわからん資料もありましたが、当時、僕らの担任の先生もどう使ったらいいかわかってなかったです。
こういったかつての道徳の授業に対し、世間から次のような指摘がありました。
・ 子供に教員の意図したことを言わせたり書かせたりする。
・読み物の内容理解ばかりに傾向するため、国語の授業と変わらない。
つまり「望ましい道徳とはこうだ!」っていう形式があってそれに沿ってやっていく授業が多かったんですね。
「先生の好ましい道徳観を述べる授業」となりかねない。
ここまで読んでくれた方々なら、お気づきでしょうが、これって民主的社会の教育に合ってないですよね。
というわけで近年改正されました。
【ジン太郎が良いと思った新しい「道徳科」の要点】
・教材に対して考え、議論する
・成績はつけるが数値評価ではなく文章表記
・答えを一つに絞らず、一人一人の良さや成長に焦点を当てる。
どうです?だいぶ民主的になったように見えませんか?(具体的な指導例は割愛するね!)
まず考え議論するためには、多様な価値観や意見を理解しないとなりませんからね。
とはいえそれを実践するための子供たちの資質能力の育成が必要になるのでしょうが。
【疑問に思ったこと】
学習指導要領という学校の先生に対して「こういう風に教えてね!」というマニュアル的なものがあります。
そこで気になる記述がありました。そこを要約すると、、、
・道徳教育は教育基本法及び、学校教育法に定められた精神に基づいた道徳性を養う
・我が国と郷土を愛する心を育てる
といった内容が散見されます。
つまり学校が教える道徳って教育基本法に沿ったものであることが前提なんです。
いくら教育基本法が時代に応じて改正されるとはいえ、
明確な答えが存在しない道徳に対して法による定めを加えるのはどうなのかな?
って思いました。
無法地帯もヤバいけどね!
後者の「郷土を愛する」というのは、ようするに愛国心です。
「日本というシステムのリソースを割いて教育を受けている以上仕方ない」
という意見もありますが、香港の人たちも言っていた通り、愛国心って自然に湧き上がるものであって、誰かに言われて持つものではないような気がします。
参考文献
⑤まとめ
僕のせいで、
「え?日本の教育体制怖くない?中国や香港問題と同じやん。」
と思った人、ごめんなさい。
正直こういった課題は、文科省や政権が変わっても同様だと思います。
何故なら、いくら民主主義とは言え、ルールを決めるのは人間だからです。
その人達がどんなに気をつけていても、ルールや教育方針を決めて反映させる際に、思想、イデオロギーが1%も関与しない状態なんて可能なのでしょうか?
だから「〇〇党が〜」とかそういう話ではなくて
予めそれを踏まえたうえで、我々が自分達で考えて意見をもたなければならないのだと思います。
理解するべきは
我々が受けている教育や情報は、いつだって”発信者の意図”という名のフィルターを通したものである。
ということです。
それを含めての民主主義だと僕は思います。
あなたはどう思いますか?
続きはこちら
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香港デモと日本の民主的教育について(前編):正解のない問題⑥-1
※このブログを書いたのは2020年です。何度も書き直しています。
香港で周庭さんが逮捕→保釈されましたね。
周庭さんの主張や行動については、立場や見方によって意見が割れると思いますが、一旦それは置いといて
香港の件は、全然他人事ではないよね?
という話を
主に
- 歴史や時事問題のニュースが苦手
- 香港デモの内容がよくわからない。なんでデモしているの?
- 日本となんか関係あるの?
という人向けに前、中、後編に分けてお話しします。
今回の前編では、これまでの中国と香港の関係についてザックリ話します。
目次
⓪何に対して抗議してたの?
まず最近の香港デモは2019年の逃亡犯条例改正案抗議から始まりました。
経緯をザックリ説明するとこうなります。
⇓
香港にて、ある男性が台湾に旅行してた時に同伴した自分の彼女を殺害していた件で逮捕された。現地である台湾に捜査依頼
↓
台湾「でも香港さん、うちらって犯罪者の引き渡しルールとかちゃんと作ってなかったよね?ソイツの引き渡しどうしよっか?」
香港政府「じゃあ、必要に応じて中国と台湾が要請したら引き渡していいってことにしよっか。条例改正するわ。」
香港の人たち「それは反対します!」
デモへ
⇓
さて香港の人たちは何故反対したのでしょうか?
それを理解するためにはまず中国と香港の歴史の歩みを知る必要があります。
度々行われる香港デモですが、毎回争点となるのは
国民を管理して安全を維持したい:中国共産党
VS
という対立構図(ジン太郎視点)となります。
➀そもそも中国と香港って何が違うの?:一国二制度
たしかに香港は中国の中にある都市です。
しかし特殊な事情があり、
という仕組みになっています。
中国は共産党という組織がトップに立つ国です。
香港は中国内の都市ですが、
中国と香港では
それぞれ別の制度による自治が行われています。
今回の話に関連する大まかな(ホントに大まかな)違いを説明します。
【経済】
中国:共産(社会)主義
- 利点:みんなで生産した富を共産党の管理のもと平等に分配する。
※中国の市場は後の改革によってある程度自由化されるが、説明は割愛
- 欠点:頑張った人も、サボった人も同じ報酬。
※中国は度々改革して資本主義の要素も取り入れているけど今回は割愛
香港:資本主義
- 利点:自由経済、競争もあり、個々の生産に応じて富を分配する。
- 欠点:貧富の差が生まれる。(資本主義国家では救済用の福祉制度がそれぞれ実装されていることが多い)
【社会思想】
- 国家や共産党を敬い、政府の言うことをちゃんと聞こう。国を愛する気持ちがあるなら反抗的な態度は良くないよね。
- 利点:トップ(中国共産党)を主体に国がまとまる。
- 欠点:言論の自由が制限され、社会への疑問や問題点などを発信・改善しづらくなる。
香港:民主主義傾向
- 社会のルールは国民の皆で決めよう。
※香港政府の選挙制度は中国共産党が決めているため何度も議論されている。(後述)
- 利点:多様性が認められ、様々な意見交換ができる。
- 欠点:考え方や意見の違いによって国民の間で摩擦が生まれることがある。
②何故二つの制度に分裂したの?
1842年に中国、イギリスにアヘン戦争で負ける。
↓
香港がイギリスの植民地となる。
↓
香港はイギリスの影響を受けて、中国とは別の社会発展を歩む
↓
第二次世界大戦終了、冷戦開始
世界の勢力構図↴
アメリカを中心とする資本主義派 VS ソ連を中心とする社会(共産)主義派
↓
中国:共産主義派
&
イギリス:資本主義派 = 香港:資本主義派
↓
冷戦終結。そして....
世界の人達「植民地支配って良くないよね?」
↓
1997年
イギリス「そうだね!じゃあ香港を中国に返すわ!」
↓
香港返還!めでたしめでたし....とはなりません!
普通、返してくれるなら喜びそうですよね?しかし香港の人たちの言い分はむしろ
「私達!今の方が良い!!」
だったのです。何故?
そもそも当時の香港人の多くは、自分たちが中国人という感覚が薄いです。
実はイギリスにとって香港は、貴重なアジア植民地だったため、とても大事にされていました。香港の人々にとっても当時の時点でかなり豊かな発展を遂げています。
彼らが話している言葉も基本英語です。
なので…
「ぶっちゃけ資本主義社会で特に不便してない!今更変えるなんて嫌だ!」
↓
つまり香港としては
「あの時は略奪愛みたいな感じだったけど、今の彼氏の方が良い!今更元カレの所なんて戻りたくない!アイツめっちゃ束縛激しいし!!」
みたいな感じです。
まず香港が中国だったのって150年前ですからね。付き合ってたことすら忘れてたと思います。
というわけで、次のような一国二制度が決まりました。
香港「いずれは普通選挙やって行政も独立するからね!」
中国「お、おう。この一国二制度は50年間(2047年まで)の予定だから。その間にお互いにちょうどいい落としどころを話し合おうよ。」
ここで大事なのは、未だに香港政府はあくまで中国共産党の強い影響下にあるということです。
③なんでデモが起きたの?何で揉めてるの?
一国二制度が成立してから今日までの間、香港では度々抗議活動が行われていました。
中国政府のやり方は独裁だという意見や、香港デモは野蛮でわがままだという意見もあります。
僕は前者ですが、世界には様々な正義があります。
民主化を巡る出来事について、最近の有名なものを述べます。
2003年:【国家安全条例反対デモ】
中国「中国に対して反逆、反乱、分裂やそれを煽るといった行為を禁止する条例を作ります。国に対して悪いことしたら捕まえます。」
香港人の言い分↴
50万人のデモによって撤回。
※2020年6月30日に成立した香港国家安全維持法については⑤で少し話します。
2012年:【愛国心教育カリキュラム必修化抗議デモ】
中国「この素晴らしい中国という国を愛する気持ちを教育で養おう!」
香港人「国=共産党にならない?私たちが何を愛して、何に従い、何を正しいと判断するかは自分たちで決めるから、偉い人たちに強制(洗脳)されたくない!」
↓
学生団体を中心にデモによって撤回
この時から周庭さんも参加されたようです。
2014年:【雨傘運動】
香港人「選挙の投票権はまだ共産党が仕切っている。いつになったら私たちの意見反映できんの?」
政府「2017年から、香港の人たちによる直接選挙に変えるよ!」
香港人「やったぁ!どういう投票制度なの?」
政府「それ用の委員会から過半数の支持を得た人が立候補するからみんなで投票して!」
香港人「ねえねぇ、委員のリスト見たけどその委員会ってほとんど共産党派の人達じゃない?」
政府「......」
↓
デモ勃発。警察がデモ参加者に催涙弾を投げつけるから雨傘で対抗した。
この新たな立候補制度案は2016年に否決。
しかし未だに普通選挙は実現してない。
2015年:【中国の情報管理と香港の書店員失踪事件
社会背景↴
- 1989年の天安門事件:中国で大勢の国民が政治や経済の民主化、自由化を求めて天安門広場に集まって抗議してたのに対して、戦車を出動させて兵士が発砲して大勢亡くなった。
- 中国ではインターネット検索しても、毛沢東の批判された政策や天安門事件の記録は出てこない。またSNSやインターネットの情報はサイバー警察が管理しており、国家や共産党への批判的発信は「治安維持の観点」から通報される。
2015年、香港にて共産党に対する批判本や天安門事件などの記録が記載された本を扱う書店の人々が失踪。
↓ 翌年
2016年
香港人「あ、書店の人たち帰ってきた!急にいなくなったけどどうしたの?」
書店員A「言えない。店閉めるわ......」
書店員B「うちも理由は言えないけど閉める......」
書店員C「実は中国に拉致されて扱っている本について脅されていました......」
香港と世界「え?マジで?(ドン引き)」
2019年:【逃亡犯条例改正案抗議デモ】
ここまでの流れを見たうえで、もう一度去年のデモの流れを見てみましょう
香港:「ねえ台湾さん、最近うちで逮捕した人の話だけど、台湾に旅行してた時に同伴した自分の彼女を殺害していたのね。殺人が起きた現地の台湾の方で捜査してもらわないとかな?」
台湾:「でも香港さん、うちらって犯罪者の引き渡しルールとかちゃんと作ってなかったよね?ソイツの引き渡しどうしよっか?」
香港政府:「え、なになに?それじゃあ…
必要に応じて中国と台湾が要請したら引き渡していい
ってことにしよっか。条例改正するわ。」
香港人:「ふざけんなあああああ!」
香港政府:「なんで?」
香港人:「いや、今までのパターンからして、その条例改正を認めたら、もし香港の中に中国共産党にとって都合の悪い人間がいた場合、その人に難癖付けて引き抜き放題になるやん!」
デモへ
④五大要求
香港の人達は去年いきなり怒り出したわけでなく、
返還されてからずっと民主主義について主張していたのです。
2019年から2020年現在まで香港デモの参加者は次の5つを要求しています。
1:逃亡犯条例改正案の撤回(2019年9月に達成)
3:警察の過剰な対応(デモ参加者視点)を取り締まる独立調査委員会の設置
4:逮捕されたデモ参加者の釈放(周庭さんは釈放や取り下げではなくではなく保釈)
5:過去の抗議活動を暴動認定していたことを撤回
さらに2020年6月30日に成立した香港国家安全維持法が、上記の2003年に出た国家安全条例に近い内容な上に、コロナのゴタゴタの中で正規の手続きを踏まずに成立したのではないか?と議論されています。
香港の人達の希望する民主性はどこに向かうのでしょうか?
今回の前編では香港デモのザックリのあらすじと、中国の管理体制についてお話ししました。
後編では
日本も昔は中国と同じことやってたよね?
今後国民が道徳規範への解釈を間違えたら日本だって同じような問題が発生するかもしれないよね?(別に陰謀論じゃないよw)
という話をします。
あなたはどう思いますか?
後編はコチラ!
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戦争の歴史を身近に感じた日
お母さん、妹、この手紙が届いたら、まずは赤飯を炊き家族みんなで祝杯を挙げてください。私はこれからこれ以上にないような名誉な任務に赴きます。これも全てお母さんが私を立派に育ててくれたおかげです。
⇧
これは二十歳前後の青年が家族に向けて書いた手紙の冒頭の部分です。
何かの合格祝いとかに見えますね。
お久しぶりです。ジン太郎です。
コロナの影響で仕事と通信大学に支障が出て、予定より半年遅れましたが、もうすぐ教員免許が取れそうです。
さて
本日は8月9日。長崎で原爆が落ちた日ですね。
といっても70年以上前の出来事です。当時の生き証人も減っていくなか、とても大事な歴史だということは知っていても、いまいち実感がない、「とりあえず黙祷しとくか」みたいな方もいるのではないでしょうか?
かつての僕もそうでした。
そういう人達の力に少しでもなればと思い、今日は僕が戦争の歴史を身近に感じた時の話をします。
中学3年生は本来コロナさえなければ、
6月あたりに歴史の授業で第二次世界大戦終盤を勉強してる学校も多いと思います。
戦争当時の5月~8月といえば、
横浜大空襲や沖縄上陸戦、2度の原爆投下など終戦前の悲劇が連続した時期なので、
生徒の中には授業で学んだことを今日思い出している子もいるかもしれません。
僕の教育実習はちょうどこの6月でしたが、
この時に一部の生徒達から気になる意見がありました。
「まるでフィクションのようでピンと来ない。」
「授業で流れたVTRの内容が怖くて頭に入らない」
などです。後者の意見に関しては先生もいろいろ配慮していました。
実はこの意見、僕の友人や身内からも度々聞いた意見で、僕自身もそう思う部分がありました。
確かに戦争の話は基本的に暗い内容ですし、そんなことを一時間以上、話なり文章なり、映像なりで見聞きするのは、どんなに真面目な性格でも拒否反応を起こす人もいるでしょう。
「大切な歴史だと思うけど、内容はちょっと苦手。。。」
ってパターンですね。
そんな僕が戦争について真面目に考えることができたのは、大学生の頃、
わずか数分の経験からでした。その数分で僕は戦争の歴史を重く受け止め、初めて実感することができたのです。
それはかつての大学生時代、ゼミ活動の傍らで寄った、茨木県にある
でのことです。
予科練とは、「海軍飛行予科練習生」。簡単にいうと戦争に向けて航空戦闘のために訓練を受けた10代~20代前半の人たちのこと、あるいはその制度のことです。
約24万人の少年達が訓練を受け、第二次世界大戦では約2万4千人が戦いに飛びたち、8割の約1万9千人が亡くなりました。
そのなかには特攻隊として出撃した方々もいます。
予科練平和記念館には戦地に赴いた少年や青年達の遺書の原物が展示されています。
ただ遺書の内容が旧字なうえに達筆すぎて僕には読めなかったので、なんとなく気になり、スタッフのお姉さんに訳してもらいました。
本記事の冒頭のアレ。かつて大学生だったジン太郎が見た、二十歳前後の特攻隊員の遺書の冒頭です。
同い年の子がこれから飛行機に乗って、敵軍に突っ込んで死に行く直前に書いた手紙の冒頭が
「お母さん、妹、この手紙が届いたら、まずは赤飯を炊き家族みんなで祝杯を挙げてください。」
だった事....
内容がうろ覚えなのですが、実際はもっと華やかで盛大な祝辞のように書かれています。文面だけみたら、これから死ぬ人の文とは思えなかった。
しかもめちゃくちゃ達筆です。
最初の正直な感想は「聞かなきゃよかった」でした。
それだけ当時のジン太郎にとっては、学校の先生の長話やどんな本や映画やおばあちゃんの話よりも、約70年前の同い年の子が書いた、たった数分で読める遺書の原物の方が衝撃的だったのです。
何故この手紙がそこまで僕に戦争について考えさせたのか、
それはおそらくこの手紙が同世代によるものだということが、大きかったのだと思います。
なんせ当時の僕の悩みといったらせいぜい部活や学業の悩みだったので。
手紙を理解した瞬間に彼らとの温度差に打ちのめされました。
もし彼らが現代に生まれたら、我々のように「単位取れるかなー」とか「就活どうしよー」とか「次の試合勝てるかなー」とか、そんな青春を謳歌していたかもしれない。
だから衝撃的だったのです。
僕の感覚からすれば、これから理不尽に死な為に飛行機に乗せられる状況で
こんな華やかに大学受験合格とか結婚報告とかそういうノリで、祝いみたいな文章を書くことなんて正直まったく感情移入なんてできなかったし、
それが彼にとっての本心なのかもわかりません。
でもね、手紙の後半どうみても筆が震えているんですよ。
しかも余白足りなくなったのか、字が小さくなって隙間ギリギリまで書いているんですね。
きっと書いているうちに、どんどん感情溢れだしてたんだろうなーって。
それだけの生々しさと熱量があります。手紙は言葉が目に見えるのでほんとにすごいです。
ちなみにこれらの手紙は、そのほとんどが出される前に検閲が入った後に家族のもとへ届きます。
なので「戦争嫌だー」みたいな事は書けません。
ちなみに記念館には、検閲を免れた手紙も展示されています。
だとすれば、そこにはどんな内容が書かれてあったのか?
みなさんの想像にお任せします。
若い方で、グロテスクな話を長々聞いたり、映像見たりするのが苦手な方、生まれる前のことだからイマイチ戦争の歴史がピンと来ない方、
自分に合った、自分の感性に訴えかける資料がどこかにあるかもしれません。
こんな遺書を若者が書くような世の中にしないためにも、いろんな人が何かがきっかけで関心を持てるといいと思います。
今回の参考資料HPはこちら
臨時休校よって困る人達:正解のない問題⑤
おはようございます。
今日で2020年3月1日です。コロナウィルスが大変です。
さて、コロナウィルスといえば先月(2月)末にぶったまげるニュースがありました。
ご存知だと思いますが、それは政府による「3月からの学校の臨時休校要請」です。
本件に関してはジン太郎も当事者の一人といえるので(後述)皆さんに知って欲しいことがあり、この記事を書いてます。
先に言っておくと、ウィルス拡大にあたり、学校という多くの人間が集まる場所を止めることは別に不思議とは思いません。ここの賛否については今回は置いておきます。
一応今回の騒ぎについてザックリまとめると。
政府「3月から学校休校して!」
↓
学校「え、3月って来週(正確には4日後)だよ!?こちとら成績処理やら卒業式やら授業やら年度末のあれこれやらいろいろ残ってんだよ!?いきなりすぎじゃない!?」
↓
保護者「え、3月って来週(正確には4日後)だよ!?うちの子一人で留守番なんて無理だし仕事はそんな急に休めないよ!?いきなりすぎじゃない!?」
いきなりすぎじゃない!?
つまりタイミングが”いきなり”過ぎたんですね。本当にいきなりすぎたんですね。
学校も自治体も今後の方針について様々な対応に追われ、この週末は怒涛の日々だったことでしょう。
今でも休まずに動いているところもあるのではないでしょうか。
関係各所の方々には、もう本当に本っっっっっ当に頭が上がりません!!
では本題。
僕ことジン太郎は本件に関してどのような当事者で、何を伝えたいのか。
まず僕の仕事をザックリ説明しますね。
自己紹介の記事でも述べてように、児童支援員やりながら通信制大学に通っています。
仕事については簡単にいうと
何らかの障害や精神疾患、家庭の事情や不登校などなど様々な理由によってによって日中に家や学校にいることができない。
そういった子供たちを施設で預かり、個々に応じた発達支援を行い、夜にご自宅に送り届ける仕事です。
分野としては福祉・療育・教育等。該当するイメージとしては学童保育や放課後デイサービスなどがわかりやすいかと。
勘の良い皆様ならば話が見えてきたのではないでしょうか?
本タイトルで述べる「臨時休校によって困る人達」とは保護者と”上記のような支援者達”です。
家にいることができない子供たちの親は、学校の代わりに支援の事業所を頼りにすることがあります。
その考え自体はある種当然のものとして理解しております。例えば作日(2月29日)時点で厚生労働省は学童保育にそういった対応を求めています。
僕が今回みんなに知って欲しいのは
「親оr支援者達に子供のこと全部丸投げはヤバくない?」
「やっぱり社会のみんなで協力しないと無理」
です。
お話しする前に抑えてほしい前提としては ↓
- 今回の休校は感染防止のためである。
- 支援事業を利用するような子供達は年齢や障害、家庭環境、その他もろもろの事情で子供だけで留守番ができない。
- 支援事業所は弊社ふくめ多くの場合(一部例外を除き)、基本的に平日の利用時間は午後から半日(放課後など)、土日祝日は終日。で運用している。
- 全部の学校の学級が丸1日休むわけではない。
これを踏まえ、支援事業所の利用時間は僕が考える限り”次のような議論フェイズに移ります。
➀支援事業所も利用を停止:集団感染拡大防止のために休校しているのだから、必然的に支援施設にも子供が集まる状況は避けるべきという議論
⇩ できない場合
➁通常運用で利用を継続:共働きやひとり親世帯あるいは職種の関係等、いきなり仕事を休めないご家庭もある。そういった事情がある子供だけでも通常(状況に応じて延長)利用することはできないかという議論
⇩ できない場合
③利用時間を拡大:ほとんどの保護者は仕事を休めず、子供の面倒を見ることができない。休校になった時間分、平日時の午後から半日利用を、常時土日祝日時と同じ終日利用に変更するかどうかという議論
わかりやすく言うと、
- フェイズ➀家庭で子供を終日全部見る。
- フェイズ②家庭と支援者で子供を半日(可能な範囲で延長)ずつ見る。
- フェイズ③支援者が子供を常時終日見る。
です。
しかしそれぞれの実現には次のような課題が考えられます。
①の課題:家庭に子供たちの面倒を”1日”見ることができる人(保護者)、時間や場所等の環境が”常時”整備されている必要がある。
②の課題:家庭とに子供たちの面倒を”半日”(午後は支援事業所に預けるため)見ることができる①と同じような環境が整備されている必要がある。集団感染リスクへの懸念。
③の課題:支援事業所に子供たちの面倒を”1日”見ることができる人(スタッフ)、時間や場所や等の環境が”常時”整備されている必要がある。集団感染リスクへの懸念。
つまり子供を見る時間が増えた分だけ、①は家庭(保護者)の、③は事業所のリソースを大幅に確保しなければなりません。②はその中間と認識しています。
もちろん多くの人間にとっては①の実現が理想です。
なんせ家にいるので感染リスクを最小限に抑えることができますからね。
しかしこれの実現にはまず保護者の環境、休める職場やテレワークなどの在宅勤務を可能にするといった、学校や支援事業所以外の組織の協力が必要となります。
しかし現実的に考えると②に着地するのが妥当かもしれません。
何故なら実際問題全ての親が1日休めるわけではないから。
例えば子供の何らかの特質、医療関係の人や親自身の健康状態の関係上どうしても、、、、って家庭はどう頑張っても一定数存在するので、そういう人達が支援事業所を頼りにするのは自然な流れだと思います。
僕自身もそういう状況の子供を支援することがこの仕事の意義だと思っているので。互いに協力しあうべきでしょう。
そして最悪な選択が③だと思っています。
まず政府の当初の目的である感染防止の意味を完全に失います。
なんなら学校と比べて場所が狭い分感染リスクが増します。
そして現実問題として多くの事業所は毎日丸1日子供が利用できるようにするための物理的リソース(主に人)はありません。
だって普段必要ないもん。
支援事業所の多くは支援を必要とする子供の人数、個性、滞在時間に応じた人員を配置し、事前に支援の専門的準備を行います。
誰かが長く仕事すれば解決する話ではありません。
言ってしまえば、学校や保護者が子供を見れなくなった分を支援者に丸投げしても、支援者側も元のキャパを超えているから無理なんですね。
自治体によっては小学校教員をヘルプに行かせるところもあるそうですが、現場に言わせると互いに仕事内容が違いすぎて戦力になるか怪しいです。
僕の仕事場では今週末行った幹部含めた職員会議の結果、②になりました。通常時より利用開始時間と就業時間を短縮する方針となりました。
全員の常時終日利用にならなかった理由は、上記に述べた通り感染リスクと、人員的に終日運営が不可能だからです。
もちろん日頃から支援を必要としているようなご家庭が今回のような事態に対応するのは決っっっっして容易ではありません。
ここに至る背景にはそれぞれのご家庭やその方々の働く職場や地域といったその人たちを取り巻く社会環境の人々の理解と協力がありました。
本当に感謝しています。
なんなら人情に触れたような気がしてちょっと泣きそうです。
ん?ジン太郎のとこは解決したの?ならよくね?
とはならないですよ!!
何度も言ってますが、うちの所がこのような形で落ち着いたのは、
支援者や保護者や周りの人々のみんなが協力してくれたからです!!
全ての事業所がこうなるとは限らないでしょう。
一番怖いのは
「自分の所の子供のことくらいなんとかしろ」
と保護者が学校からも職場からも見捨てられて、行き場をなくしたり
「お前らは行政からこういう時のために金もらってんだから当たり前だろ!!」
みたいなわけわかんない理屈がまかり通ったりして
支援事業所の許容量を大幅に超える人数、時間に子供達が押し寄せて、それに対応しきれなかったがために、子供たちの身に何らかの不幸な事故が発生し支援者たちも不当に責任を追及される。
といったパターンです。誰も救われないですね。
地域によっては一年生の半分近くが学童保育に通っているところもあるそうですし、
日本の場合、共働きの核家族&一人親の家庭の比率は各都道府県でも半分近くを占めている世の中なので全然あり得ると思います。
すでに同様のことを懸念して方針を打ち出している自治体もありますが、
当事者の一人として、こういった状況を避けるのは、学校や支援事業所だけの課題ではなく、社会全体の課題だと再認識したので少しでも知ってもらえたらと思います。
そんだけです。
あなたはどう思いますか?
教員はまず増員とかいう前に仕事のやり方を現代化した方が良い:正解のない問題④
「スタッフを増やすという事は、その分求められる成果のハードルが上がるという事だからね。期待しているね。」
これは以前私が勤めていた職場で大変お世話になった上長(エリアマネージャー的な)が、私に言った言葉です。
おはようございますジン太郎です
今回は学校の働き方改革について今のうちに現在(2019年9月)の自分の考えをまとめておこうと考え、思考整理も兼ねてブログに上げました。
私はニュースや大学での研究等で、学校教員の多忙問題が扱われるたびに、思い出す言葉が3つあります。
1つは冒頭で述べた上司の言葉。もう1つが以前教育実習中に生徒が言っていた
「先生が達が忙しすぎて何も相談できない」
です。当時私は生徒から様々な悩みを聞きましたが、これが特に多かったと思います。
そして3つ目が
「USBメモリって何?あとPDFファイルって何?業務にオンライン使うって最先端技術すぎない?」
でした。これは学年主任(管理職の一つ)の教員が言った言葉です。
目次
世間で周知されている現状のおさらいです
みなさん、学校の仕事についてはブラックなイメージを持っていませんか?
イメージというより事実でしょう。いやホントご多忙な先生方には頭が上がりません。
2018年のOECDの調査データにもある通り世界基準でも日本の先生は教員の中でダントツ世界一の長時間勤務をしています。
まずは教員の勤務時間に纏わる様々なデータを見て、私が気になった所をまとめます。
・日本の教員は世界の教員と比べて世界一勤務時間が長い
・勤務時間の内訳で授業や授業準備の時間は約40%と国際平均を下回っている(例:イギリスは70%)
・事務作業は国際平均の2倍、課外活動は3倍以上の時間を割いている。
・80時間以上の時間外業務は(文科省が把握している範囲で)中学校教員は6割を超え、この10年間で17〜20時間も勤務時間は増えている。
・海外の学校は50〜60%を教員、残りを専門スタッフ分業しているのに対し、日本は80%以上を教員が業務を一貫して行なっている。
とにかく上から降りてくる事務仕事が多すぎるようです。
日本教員の仕事は年々増え続けて、先に述べた通り実態としてとうとう部活動にすら時間を割けない教員まで現れつつあります。
部活動の是非については色々意見が分かれる所なので、今回はその部活の時間すら蝕む事務作業等についての話を中心に述べることにします。
世間の反応
最近の学校関係のニュースの中に変形労働時間制についての話が出ていますね。変形労働時間制についての記事はこちらがわかりやすいと思います。関連性のある話題は、文部科学大臣による9月11日の記者会見です。
私が気になったのは、この後の学校の働き方改革についての言及でした。(文科省のYouTubeチャンネルに当時の会見映像があるので出典としてリンクをここに貼ります。動画の31:30からです)
大臣がここで述べた事を簡潔に求めると
・教員志望者を増やすためにもっと仕事の魅力を伝えていかねばならない。
・教員達は事務作業などに時間を取られすぎて子供と向き合う時間がない。
・解決するにはしっかり体制を作っていかねばならない。
・マンパワーの投入してでも変えていく。
・教員採用試験の倍率低下の理由は、学生時代から学校現場が大変という先入観を持ってしまっている部分もある
でした。
最後に関しては「先入観じゃなくて本当に大変だよ」という反応が多かったです。
マンパワーとは事務作業などをやるスタッフのことなのか教員の増員のことなのかはわかりませんが、少なくともいずれも大事なことを仰っているとは思います。
このように世間は教員ブラック問題に向けられ、先の労働時間や給特法継続の是非など、労働に関する制度改革や業務削減等の様々な案が議論、検討されています。
分業にもようやく目を向けられ、事務職員やスクールカウンセラー・ワーカー、外部支援員など、国は関連機関や専門家との連携の方針を示しました。
示してくれたはいいけどいつになったら体制が整うのやら…。
ジン太郎の意見
先に結論から言いますと、
「まずIT機器とインターネットくらい使えるようになろうよ」
です。
学校現場を知らない方や、大学卒業してそのまま教員になって、今まさに多忙な業務に追われている方からしてみれば「え?お前何言ってんの?」と思うかもしれません。
いや別に難しい事を言っているわけではありません。
例えば「業務連絡はメールで行う」や「書類やデータをオンライン化して共有する」とか一般社会、一般企業で行われているレベルの話です。
この主張に至った経緯をお話ししますね。
jintarou-tai-gun-sai-yo4.hatenablog.com
上の自己紹介の記事で話した通り、私は通信制大学に在籍してます。通信制って誤解されやすいのですが、普通の大学ほどの頻度ではないにせよ、通学して授業を受けることも結構なスパンであるんですね。
なので教室には多くの社会人が集まって講義を受けたりします。中には現職の教員がキャリア拡大目的でいらしたりします。
ある日の合同研究で教員の業務について話し合いました。
多くの社会人が、様々な資料や、教育実習での現場体験、校長や教頭、学年主任など管理職含めた現職の教員複数名から話を直接聞くなどの客観的データと主観的意見を統合し、調査をしました。そして出た結論が
「部活動とか課外活動除けば業務量自体そんな多くなくない?」
だったんです。なんか炎上しそうな発言ですね(笑)。
なんなら「相対的にみれば業務量はホワイト寄りだと思う」って言う方もいました。
もちろん先生方の勤務時間は相対的に見たらドブラックだと思います。36協定を3ヶ月でブチ抜く事もあると言う全然笑えない状況です。
ただ我々に共通していた意見は
「仕事のやり方はまだまだ改善できる」
でした。たくさんありますが一番多かったのは、アナログ管理が多すぎる事です。
例えば事務仕事って報告だったり記録残したりというのも多いと思うのですが、
学校ってその連絡手段がファックスだったり、手紙だったりするんです。手紙に関しては学校に専用のポストがあって専門の配達員が学校に回収しに来ます。一部を除いてメールでのやり取りが少なく、なんなら電子書類をメールに添付して送る方法を知らない先生までいるんですね。Wordやエクセルが最近ようやく慣れたレベルです。それが冒頭の3つ目の発言に繋がります。2017年にようやくウィルスセキュリティを導入する学校まであります。
比較的若手の先生方はある程度扱えますし、実際授業ではパワーポイントなど用いた勉強法が多々実践されています。
しかしICTを日頃の業務に落とし込むという裁量はこの人達にありません。そういう発想が思いつかない、あるいは思いついても立場上改善案を出せないような作りになっています。
この人達は「業務改善を考えるのは自分たちの仕事ではない。上の仕事だ」と認識している可能性さえあります。
これは学校という組織が閉鎖的な上に、一般企業と違い競争相手がいないため、「もっと仕事を効率的にして高い成果を出そう」と言ったインセンティブが働かないからです。
個人的には、この前時代的な運営体制に関しては別に先生方が悪いとは思っていません。
それが評価されるわけでもない世界にいれば、そうなってしまうのは仕方ないでしょう。この人達にとっては、おそらくこの現状が疑問の余地がない当たり前なのです。
実際部活や課外活動等で疲弊しきっていてそんな力が残ってないのも事実です。
しかし時代の変化によって学校側のニーズが多様化しているのに対し、学校側の業務運営体制が変化しないのであれば教員の労働時間が増加するのはもはや必然です。それは学校に限らずどの仕事だってそうです。
・ペーパレス化を進める
・書類や情報共有はイントラネットで統一する
・連絡は基本メール
・会議はいちいち出張しないで可能な限りテレビ会議にする
・書類をいちいち読み上げないで、各自読んだらサインとかにする
・めちゃくちゃ量のあるらしい教育委員会からの調査絡みのアンケートもオンライン化(してるのかな?)する
などなど他にもまだまだあります。
別にICTに限らず、非合理的な事はあげてたらキリがなさそうでした。
実際導入や改善している学校や地域はあるそうなんですが…。現地の先生曰くノウハウの共有をする暇なんてないそうです。
たしかに学校がベンチャー企業みたいな意思決定プロセスであれば、さすがにどうかと思います。
それにしても我々の目には業務レベルが一般社会から乖離しすぎているように見えました。
これらの主張をすると大概
「口で言うのは簡単だけど…」、「そうは言っても上が動いてくれないんだよ!」、「我々にはどうしようもできない」、「比較的上の年齢の先生が置いてかれる」、「こんだけやってるのにこれ以上どうしろと?」、「そんな力残ってない」
とかの返答が返ってきます。実際ICTについていけず辞める先生もいらっしゃるそうです。
それでもどこかからアプローチしなければ変わりません。
文科省はICT導入を掲げており、そのための専門員も用意しようとしてはいますが、そもそもその知見が充分にあるのかもわからないし、この調子だと導入された頃にはすでに時代遅れなシステムになるのではないかと勝手に予想しています。
そもそもいくらルールを変えようが仮に給特法を廃止しようが教員の仕事が減るわけでもなければ、学校教育のニーズが変わるわけではありません。
もちろん制度改革は長期的にみれば理不尽なニーズや的外れな仕事の依頼から教員を守る上でとても大切です。熱心で子供思いな先生が過労死なんて絶対にあってはならないです。
ただ、業務の効率化や合理化の工夫と努力を最大限行わずに「制度を変えろ、人員を増やせ。」という主張には違和感があるのです。
本記事の最初に述べた上司の言葉は、以前私が職場での人員不足を相談した時に言われた言葉でした。人を増やしたのであれば、その分以上の売上と業務改善を求められるのは当然だと思います。
教員も仕事である以上、成果に向けて生産性を最大限上げなければ、そのしわ寄せは子供達に行きます。
「改善は上の人の管轄だ」と他責にし続ければ、また「先生達が忙しすぎて何も相談できない」と言う子供が増え続けるでしょう。
学校教育は誰の為なのでしょうか。
とはいえ過酷な現場の先生方に何かを変える気力や体力が残っているのかは疑問が残るのも事実です。
私も改善に向けてのより具体的で実践的なアプローチがないか勉強しております。
少しでも改善の動きをする人が、今後の教員志望者や管理職。学校のルールを決める偉い人たち。現職の方々に増える事を祈ります。
ぶっちゃけ自分でもかなりメチャクチャな事を言っていると思います
とりあえず言いたいことは一通り言ったので帰ります。
あなたはどう思いますか??
*1:出典 TALIS:OECD国際教員指導環境調査より
*2:出典 文部科学省:学校における働き方改革について